今日の要先輩はいつもより良く笑う気がする。多分、施設育ちの俺と歩く外の世界を新鮮に感じているからじゃないかと思った。
すっかり平らげて腹が膨れた所で買い物を楽しむ。あれもこれも欲しくて目移りしてしまって、要先輩は「仕方ないな」と小突いたりしながらも色々買ってくれた。
服、靴、バッグ、サッカーボール、野球のグラブ、良く判らない小説や雑誌、漫画、ゲーム――何の役にも立たない、くだらないがらくたばかり。
何を幾つ買ったか覚えていられない位沢山買い込んだけれど、両手は空けておかなければならないから、俺達は手には何も持たなかった。
いつものようにナイフとロープ、そして銃を携帯していた。


■ ■ ■ ■ ■


「要先輩、彼女いる?」
何かで見たような洒落た喫茶店、BGMはクラシック。これは確かヨハン・ゼバスティアン・バッハの『管弦楽組曲第三番』のアリア楽章、通称『G線上のアリア』だ。
要先輩がいつだかレコードで聞かせてくれた。後世、ヴァイオリンのG線一本で弾けるよう編曲されたという不思議な音楽。
四本弦があるのに何故わざわざG線だけで弾くのか判らなくて尋ねてみたら、ヴァイオリンはG線の高音が他弦より優るからだと教えてくれた。
だったら全ての曲をG線だけで弾けば良いのにと口にしたら、要先輩は何も言わず少し考える風をしていた。
もしかしたら、あれは減点だったのかもしれないけれど、俺は今でも不思議でならない。
「興味があるのかい?」
要先輩はアンティークなティーカップに口に付け、双眸を細めた。
色恋なんて弛んでいると叱られるだろうか。
「まあ、安居の歳なら普通か」
気恥ずかしくてストローでグラスの紅茶を掻き混ぜた。
アールグレイはマドンナが栽培した葉を、やはり小瑠璃が見様見真似で調合した。柑橘系の甘酸っぱい香が好きだった。やはり不思議と懐かしく思う。
「安居は好きな子、居るの?」
こんな話を要先輩と出来るだなんて思いもしなかったけれど、話してみたいとずっと願っていた。
要先輩は教官でも仲間でもない、特別な『先輩』だったから。
「ええと……どうだろう」
彼女は欲しかったけれど、漠然と考えていただけでこれという名前が出て来ない。
小瑠璃は友人、虹子は涼と付き合っていて、のばらは――。
「あ、マドンナ、かな」
咄嗟に思考を遮った。
そうだ、マドンナは綺麗だ。美人で男に人気があって、女には虐められていて、俺を無視して、でも一緒に暮らして、余りに苦しそうで守りたくて抱き締めて、愚行を見られて、勢いで無理矢理唇を重ねて、俺を蔑む目で――。
「違う」
慌てて首を振った。
「マドンナは、違う」
「そうだな、彼女じゃなさそうだ」
要先輩は肯定してくれる。
「未だ好きな子が判らないんだね」
――判らない。居ないのではなく、判らない。
要先輩の言葉は不自然だったけれど、妙にしっくりと馴染んだ。
「……判らない」
「判らなくて良いんだよ。そのままが良い」
「ですよね」
俺は漸く笑えた。口に含んだアイスティーに何と無く安堵する。
「要先輩は?」
もう一度聞いてみた。要先輩は何でも知っているから、きっと女の人とも沢山付き合っているんじゃないかと思う。
「俺も判らないな。でも付き合った人は多いよ」
予想通りの、予定調和の答えが可笑しかった。
「要先輩、結構やり手な感じがする」
「そうかな。俺は真面目だよ」
「それは嫌って位知ってるけどさ」
「何だ、その言い方は」
至極穏やかな時間だった。要先輩と他愛もない話をして紅茶を飲んで、BGMが聞き慣れたドヴォルザークの『家路』に変わる頃、「帰ろうか」と要先輩は言った。
俺も抜け出したのが露呈したら減点だと思ったから慌てて席を立った。
知らない物に直接触るのは危険だ。
こんな時でも俺と要先輩は手袋を忘れていない。


■ ■ ■ ■ ■


そこはもう暗闇だった。
手を繋いでいる要先輩だけがはっきりと見えるのが不思議で、俺はその顔をずっと見詰めていた。
要先輩はやはりいつもと変わらぬ風で俺と視線を交えていた。
「安居、セックスしようか」
明日の天気の話でもしているかのような緊迫感のない唐突の誘いに、俺は思わず瞬いた。
「何ですか、急に」
「安居がしたいって言ったんじゃないか」
要先輩は酷く優しげに目許を緩める。
「……そう、でしたっけ」
「安居がしたいってずっと思っていたんだよ」
事実興味はあった。涼が虹子と付き合っているのを知って、悔しくて少し羨ましく思った。
選抜が決まれば、未来で必ず必要な行為になるから、知らないと不安だとも思った。
感じて当然の不安と、隠したい疚しい興味と半々。
要先輩の手が俺の襟元に掛かった。
嬉しかった制服のネクタイはいつの間にか無くなっていて、俺はいつもの、皆と揃いの単調なTシャツを着ていた。
俺はぼんやりと束の間の自由が終わった事を思った。
「要、先輩」
首筋を要先輩の吐息が擽る。
男同士で性行為なんて可能なのだろうか。
――涼。
腹立たしい同輩の済まし顔が何故か頭にちらつく。振り払いたくて要先輩の肩を掴んだ。
右の人差し指と中指がやたらと痛んだ。もしかしたら俺は、何かまた大きな失態をやらかしたのかもしれなかった。
「出来るね?」
声が確認してくる。
セックスなんて怖くない。遺伝子を残す使命があれば、通常誰もが通過する行為だ。
試験管で作られた俺達が特異。
不意に肌が粟立った。
――減点。懲罰。脱落。赤い、部屋。
「出来なければそうなるね」
要先輩は俺の考えが全て判っているようだった。
「……出来、る……出来ます」
また涼の顔が頭に浮かぶ。
――あいつ、あんな顔だったか。酷く、目が昏い。
「悪い夢は終わるよ」
要先輩は先の言葉を繰り返した。
――実にもならない自由は終わった。もう終わってる。
肩から力が抜け、俺は冷たい掌がTシャツの裾から入り込むのを何とは無しに眺めていた。
脇腹を辿る指先は筋肉の発達を検査しているかのように丹念だった。その指は徐々に胸へと這い上がり、今度は胸筋を確かめ出す。
要先輩はこういう身体の造形の細部に至る迄、俺を、俺達を監視しているのだと思った。
やんわりと胸を揉み込まれ少しずつ羞恥と恐怖が大きくなってくるが、動いたら叱責されそうで必死の思いで堪えた。
「良い子だね、安居」
褒められるのは嬉しい。俺の存在意義が生まれるから。
俺は、俺達は、特別になる為に生まれてきた特別な存在。褒められる事、特別と比較されてより優れている事は本当の特別である証明だった。
俺達は本当の本当に特別にならなければ生きている意味が無い。



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