暗闇の中、ぽつんと要先輩が居た。いつものように穏やかに、眼鏡奥の双眸を細めている。
懐かしくて両腕を差し伸ばすと要先輩も腕を広げて抱き留めてくれた。
「安居」
柔らかく耳に心地良い声。
やはり要先輩は優しい。厳しいけれど努力を評価をして応援してくれる。
「要先輩、俺」
話したい事は山程あった。
苛酷な最終試験、茂の消失、殺した卯浪、汚く卑劣な貴士先生、俺の愚行、見殺しにした花、俺を見限った仲間――抱えている、抱え切れない不安、恐怖、寂漠、憤怒、憎悪、後悔、自責、混乱、虚無――漠として曖昧な暗く重い負の感情の数々。
要先輩、聞いてよ。
そう言い掛けて、腕を思い出した。
――のばらの、腕。
要先輩はそれを知っていたのか。
知っていて当たり前だった。
あの赤い部屋に俺を連れて行ったのは、他でも無く、要先輩だったのだから。
「……要先輩」
要先輩の掌は俺の髪を撫でてくれている。優しく、優しく、守るかのように。
沢山の大切な事を教えてくれたこの人が、本当に仲間達を、俺を、切り刻んだりするのだろうか。
要先輩の手の皮膚は俺達と同様硬く荒れているけれど、青白い肌は透き通りそうな程に汚れ一つない。
「……要、先輩……」
ならばきっと全ては夢だ。
――何だ、夢だったのか。
起こる筈無い、あんな酷い事。
俺達は未来の為に誰よりも研鑽している。それに見合った輝かしい未来があって当然だった。
そうでしょう、要先輩。
「そうだよ、安居」
耳元で囁かれる低音は疲弊した心と身体を震わせた。
目の奥が熱くなる。甘えたかった。頼りたかった。数多の感情が詰まった空っぽの何かに押し潰されてしまう前に。
「……怖いよ」
広い肩に縋って首筋にしがみつけば「もう大丈夫だよ」と温かい言葉が掛かる。
背中を、髪を、丁寧に丁寧に撫でて包んでくれて、額を擦り合わせるようにして顔を窺う要先輩の瞳。
荒廃した色も無く、澄み渡った平穏なその瞳が余りに優しくて、涙が溢れた。
違うんです、少し、ほんの少し、迷っただけで、本当は違うんです、何も見失ってない、間違ってない。
言い訳を口にしなくても要先輩は全てを判ってくれているようだった。
安居はいつも正しかった、何も間違っていない、良く頑張っている、もう大丈夫だから。
そんな風に慰めてくれた。
「悪い夢は終わるよ」
唇に囁かれた吐息に俺は心から安堵して瞼を伏せた。
そっと静かに重なる柔らかな唇。啄むように繰り返される甘い口付けは、テレビの中でしか知らない、外の世界の恋人同士のようだった。
キスがこんなに心地良いなんて知らなかった。


■ ■ ■ ■ ■


外の世界は滅ぶ。それを知らずに緊張感無く笑って過ごす無能な一般人。いつでも明日があると信じ切っている。
俺は彼等を見下していた。見下すと同時に何処かで嫉んでもいた。
特に羨ましかったのは制服だった。俺達にも揃いのジャージは与えられていたけれど、一般人はもっと洒落た、揃いの制服を着ていた。
青春、等というのは馬鹿馬鹿しい。俺達にだってそれなりの青春らしきものはあった。けれど、やはり一般人のそれとは全く違うもので――自由、とでも言えば良いのだろうか。
自由という状態自体良く判らないし、或いは俺達も本当は自由なのかも判らないが、規律の象徴であると同時に制服は自由の象徴でもあるように思えた。
俺は学ランよりもブレザーの方が好きだった。学ランは襟元が少しばかり窮屈そうに見えたから。
「安居」
呼び掛けられて目を開いてみたら、要先輩はチャコールグレーのジャケットに同系色のチェックスラックス、エンジのネクタイ、白いカッターシャツ。胸ポケットには何かのロゴマークが入ったエンブレム。
俺も同じ姿をしていた。
――これ、制服?
「少し外に出ようか」
要先輩は悪戯っぽく笑って俺の手を引いてくれた。
「良いんですか、外に出て」
「頑張っているからご褒美。でも内緒だよ」
もしかしたら、この制服は外出用にあったのかもしれない。
少し気になりはしたけれど、冷静に考えてみれば俺達は十七、一般人ならば高校生。幾らノアの方舟に選抜される特別な候補生であっても、密かに用意されていて何も可笑しくはない、この位は普通かと思い直した。
きっと落ち込んでいる劣等生から順に外出の許可があった。気晴らしとか経験とか、恐らくはそんな目的で。優等生の俺は順番が遅かっただけ。
涼は何度も懲罰房に入っていたから先に、何度も外出させて貰っていたに違いない。だから俺より先に色々な事に気付いた。
――種明かしをされれば何も不思議は無い。あいつが特別だった訳じゃないんだ。
不意に聞き慣れない騒音が耳に飛び込んだ。
駅前、スクランブル交差点。肩がぶつかりそうな距離で行き交う一般人。車の列。電車。
来た事が無くても判る。テレビで何度も見た光景だったから。
「渋谷?」
「そう、渋谷」
どんな魔法を使ったんだろうか。否――そんな物は存在しない。
俺達は施設を抜け出してバスと電車を乗り継いで此処に来た。乗り方は良く判らないけれど、要先輩がきっと全てをやってくれた。
「折角来たしな、何か食べようか」
人混みに紛れて俺達は歩き出す。誰も誰も、俺が特別な人間だとは知らない。俺の脚は軽快だった。
ぼんやりと眺めるだけだった遠く遠く、隔絶された外の世界。着てみたかった制服を、普通の高校生と同じように着こなして、要先輩と一緒に歩いている。
赤い信号で立ち止まり、青の信号で脚を踏み出す。それがどれだけ新鮮で心を躍らせる出来事か。
「俺、クレープ食べてみたい」
施設の料理は交代制、同輩の手作り。イタリアンとかフレンチとか、見た目が華やかで手の込んだ料理は良く判らないけれど、小麦粉を薄く練って焼き、果物に巻き付けるあれならば小瑠璃が見様見真似で作った事があった。
そんな浮ついた食べ物は無駄なだけ、未来への知識として無用だと卯浪は怒ったけれど、とても甘くて美味しかった。
小瑠璃が泣きそうな顔で肩を落としていたから、その時ばかりは正直に「美味い」と小さく言ってやった。そうしたら、そうしたら、小瑠璃は、至極嬉しそうに笑って、もう一つ包んでくれた。
あれは十歳位の事だったか。
「安居は見掛けによらず甘い物が好きだね」
要先輩が可笑しそうに笑うものだから少し恥ずかしくなった。
要先輩の歩調に合わせ、アスファルトに舗装された道を右に曲がり左に曲がり、信号に止まって渡るのを繰り返していたら。
「あれ、原宿……?」
「正解、物覚えが良いな」
渋谷と原宿は確か近い。路線図と地図でしか知らないけれど、歩けて普通。何も、何も不思議じゃない。
竹下通り、カラーパラソルが開いたクレープ屋、これもテレビで見た光景。
一般人、女子中高生らしき人達が沢山居て、少し気後れした。
要先輩はそれを察してくれたようで、直ぐに買って来てくれた。金銭は持たされていないし、持っていた所で払うタイミングも知らないから有り難かった。
クレープはテレビで見た通りの三角形。小瑠璃が作った不細工な形とは大違いで、だけど中身は同じバナナと蜜柑。食べ慣れた物で良かったと少し安堵して早速大口で頬張った。
「甘い、美味い」
何処か懐かしい味がしてがっついていたらまた要先輩に笑われた。



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