(few years ago)
 給湯室の電気が切れた。地味に困るので脚立を使い電球を外していると、最悪なタイミングで上司は現れた。

「名前ちゃ……えっ何してんの俺やるから!」
「大丈夫です!電球くらい外せます!」
「いやいやスカートでしょ!」
「はっこれ逆セクハラでは」
「いいから降りて。ゆっくり。一歩一歩。確実にね」
「介護?」

 誰も来ませんようにと思う時に限って誰か来るものだよなあ、と思いながら脚立から降りる。わたしが地面に降り立つのを見届けた後、上司は個性でいとも簡単に電球を外した。

「わあ一瞬だ」
「今日買いに行ってくるよ」
「あ、わたしが行きます。ついでに備品チェックもしたので」
「じゃあ一緒に行く?荷物持つの大変でしょ」
「大丈夫です!」
「ついでに昼食おうよ。何食べたい?」
「いやあの」

 上司は電球を片手ににこにこしながら個性で脚立を片付けている。繁忙期が終わり落ち着いているからか、繁忙期を乗り越えて絆が深まったからか。去年よりも福利厚生が充実している気がする。せめて脚立を片付けようと思い手を伸ばした瞬間だった。

「あぶな」
「……ごめんなさい」

 何もないところで躓いて、上司の胸に顔が埋まった。抱き留めてくれたから、腕が腰に回っている。ふわりと彼の香りが鼻腔を掠める。ウッディ?ベチバー?香水?ボディスプレー?わからないけれど男性向けの甘くない香りに、頬がかっと熱くなった。

「名前ちゃん香水つけてる?」
「え、あ、はい」
「あ、これハラスメント?だったら無視して」

 聞こうとしたことを聞かれて、耳まで熱くなる。いつまでも上司にしがみついているとそれこそハラスメントになりそうで、わたしは慌てて距離を取った。

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 そもそも些細なことでどきどきしてしまうのは異性に慣れていないからだろうな。休憩中に知恵袋で得た知識を頭に浮かべながらため息を吐く。異性に対して免疫をつけないと悪い男に騙されるとか、優しくされてすぐに好きになったら痛い目を見るっていろんなブログに書いてあった。そのブログたちの更新はだいぶ前で止まっていたけれど。

 どきどきしてはいけない人だ。好きになってはいけない人。効率重視、スピード重視のあの人のことだから、いちいちどきどきしたりして仕事に支障が出たら切られるに違いない。切られるまではいかなくても距離は確実に置かれる。それは嫌だな、と心の中の真面目じゃない自分が呟いている。

 クリスマス。お誕生日。年末年始。どれもとっても忙しかったけれど、一人きりで過ごさなくてもいいイベントはとっても楽しかった。疲れたねって笑いながらケーキやチキンやお蕎麦を食べて。エンデヴァーシャンメリーはまだ未開封のものが何本か冷蔵庫に入っている。お正月に「安くなってたから買ってきた」と嬉しそうにたくさん持って帰ってきたときの顔、可愛かったな……とそこまで考えてわたしはかぶりを振る。だ、だめ。男の人を可愛いと思ったらもうだめってどこかに書いてあった。

 異性に対して免疫がないから、一番近い異性に優しくされてどきどきしてしまうんだろう。好きな人を作ればいいのかな。誰かと恋愛すればいいのかな。そう考えながらも友達もいないわたしが恋愛なんて……やっぱり出会えるアプリを……いい人とご縁があれば最高だけれど、万が一にも悪い人に騙されたら……職場が職場なだけに上司に迷惑が掛かってもいけないし……。そこまで考えて、上司に紹介してもらうのもありかな。と新たな考えが首を擡げる。その瞬間に、まじめではない自分がもう一度耳元でささやいた。

 紹介してもらえばいいって。紹介されたら、たぶんショックだろうな。そこまで考えて、わたしはもう手遅れなのかもしれないなあ。とため息を吐く。いろいろと考えながらお茶の準備をしていると、事務所内がわあっと騒がしくなった。

「ただいまー」
「おかえりなさい!」
「お疲れ様です!あ、これが噂の美人すぎる事務員!?めっちゃかわいい!」
「はは。うちの子そういうノリ慣れてないんで困っちゃいますって。ね?」
「は、はは……」

 今日はチームアップの要請があったので、ほかの事務所の方も数人お見えになっていた。ペットボトルのお茶を渡してお出迎えをしながら愛想笑いを浮かべる。困っているわたしを見かねたように、上司は呟いた。

「名前ちゃんちょっといい?」
「あ、はい」

 別室に着いて行ったところで、上司は呟いた。

「お客さん帰るまで資料の整理してくれる?苦手でしょああいうノリ」
「大丈夫です!」
「いやめっちゃ困ってたし。接待はきみの業務じゃないから」

 そのまま上司は手を振って部屋から出ていった。救けられたことに気づき、また耳がかっと熱くなるのを感じる。こんな風に救けられて、どきどきしない方が無理なんじゃないかと思う。だけどわたし、お客様に対して感じ悪かったよな。お世辞もうまく流せるようにならねば……そう思いながらぱたぱたと書類整理をしていると、ドアがノックされた。

「はい?」

 扉を開くと先ほどお世辞を言ってくださったほかの事務所のサイドキックの方が立っていた。にこにこと友好的なヒーローらしい笑顔を浮かべている。オールマイトをリスペクトしているのだろうか。

「いま大丈夫ですか?すみません、お手を止めちゃって」
「あ、いえ。大丈夫です!何かありましたか?」
「あの、よかったら今度メシ行きませんか」
「え」
「年齢近いですよね!?今度若手サイドキックが集まる会があって、よかったらどうですか!?」
「え、え」
「ヒーロー事務所でバリバリ働いてる方の話、聞けたら刺激になるかなって……。ホークス事務所の事務の方、めちゃくちゃ仕事できるって有名で」

 頬が熱くなる。ほとんどお世辞だと思う。だけれどお世辞でも嬉しい。いきなり誘われた時は少し驚いたけれど、同世代の人と仲良くなれるかもしれない会に誘われて気分が高揚する。そ、それに仕事ができるって言われた……お世辞でも嬉しい……!そう考えているとその人の手が握手を求めるように差し出される。握手なんていつぶりだろうと思いながら手を伸ばそうとしたところで、赤い羽根がしゅっと手と手の間を通過した。普通に危ない。いつものゆるく間延びした声ではない、鋭くて固い声がその場に響く。

「その会、俺も行っていいです?年齢近いですよね?」
「あっ!ほ、ホークス!」
「日程いつです?調整しますよ」
「い、いやまだ決まってないんで!失礼します!」

 ぱたぱたと踵を返してその場を後にするサイドキックの方を呆然と見つめる。え、なに。突然登場した上司を見ると、むっとした表情を浮かべていた。気まずくなったので呟く。

「……怒ってます?」
「善意かって1%くらいは思ったけど俺が参加するって言ってあれだけ動揺するなら下心しかないでしょ。仕事の話を聞くなら別に俺いてもいーよね?」
「したごころ」
「悪い人ではなさそうだけど彼女いるって言ってたんだよね。彼女いるのにちょっと不誠実だと思わん?」
「ふせいじつ」
「若手サイドキックの会行きたかった?名前ちゃん世間知らずだから心配なんだけど」
「せけんしらず」
「あれだけ勢いよく逃げたのは後ろめたいことがあるからだよ」

 ため息をつきながらぺらぺらと話す上司にわたしは目を回していた。上司はわたしをじっと見た後、呟いた。

「で。行きたかった?」
「……友達は欲しかったです」
「俺が安全で楽しい会をセッティングするよ」

 後日、山岳救助の事件の際にチームアップしたワイルド・ワイルド・プッシーキャッツのみなさんと機嫌のいい上司との楽しいバーベキューが開催された。確かにとっても楽しい会であった。いや、だけど。結局異性に対する免疫はつかないままである。


「名前ちゃ……ちょっと何してんの俺やるから!」
「上の棚の掃除をしようと思って……」
「いやスカートでしょ!降りて」
「わ」
「あぶな」

 脚立から降りるときにバランスを崩したところを抱えられる。ふわりとウッディだかベチバーだかの香りが漂う。わたしは目をぎゅっと瞑ったあと、呟いた。

「……香水つけてます?」
「あっこれ?エンデヴァーさんコラボのデオドラントスプレー。新製品」
「ホークスさんってエンデヴァーのフォロワー?」
「フォロワー……?いや俺はそんなんじゃないよ。恐れ多い」

 あっこれ気軽なフォロワーじゃなくてもっとガチなやつだ。そう思ったけれどその言葉は飲み込む。どきどきしてはいけない人。好きになってはいけない人。きっとまだ大丈夫。大丈夫じゃなくなるまでに、そうなってしまう前に、素敵な人が現れますように。あなたのことを忘れられますように。正しい部下でいられますように。

(221105)