間接照明とキャンドルだけが灯されたベッドルームには、ぱちぱちと爆ぜるような音が響いていた。ディプティックとプロヒーローエンデヴァーがコラボレーションしたらしい限定キャンドルの香りは、男性ファンの多いエンデヴァーらしく甘くない。彼の個性をインスピレーションして創られたというそれはぱちぱちと音が鳴り大層癒される。実際の彼の個性はこんなにもやさしい音を奏でないのだろうけれど。

 インテリアとして並べてあるイソップやディプティックやザラホームなどの洒落たキャンドルやルームフレグランスは事務所の方々からの引っ越し祝いだ。「色々あって引っ越します(上司の部屋に)」と投げやりに呟いたわたしの様子を見て何かを察したのか、職場関係者はみんな何も問わないでくれた。聞きたいことも突っ込みたいこともたくさんあるだろうけれど、飲み込んでくれたやさしさに感謝しなければならない。そもそも職場の方々は上司が勝手だからか、何も言わずとも察することに長けていてとにかく空気が読める、人間として出来た方々ばかりなのだ。頭が上がらない。

「名前ちゃんが好きそうなの調べたよ!」
「フォロワーに聞いたばい!これが流行ってるって!」

 本当に周りは優しい人ばかりで、自分は恵まれているなあと思う。だからこれ以上の幸福を望んでは罰が当たってしまうだろなと思う。ゆらゆら揺れる炎を見つめる。これを買ってきたのは赤い羽根の勝手な恋人だ。

「エンデヴァーのフォロワーとして3つ買った」
「1つ使ってもいい?」
「1つならね」

 残りは観賞用と保管用らしい。フォロワーたるもの使い心地も試さねばといつになくはしゃいでいた恋人を思い出す。この部屋に引っ越してすぐのことだった。ふたりでキャンドルに火を灯して、ぱちぱちと爆ぜる音を聞いて、香りの感想を言って。普通の恋人みたいだった。……なんて、わたしは“普通”じゃないのだからわからないのだけれど。

 それからすぐに彼とは会えなくなった。事務所で顔を合わせるだけ。毎日毎日日本中を飛び回っているらしい。ただの事務員であるわたしは何も知らない。わたしどころかサイドキックの方々も、何も。元からワンマン気質のあるひとなのだ。大切なことは何一つ教えてくれない。どうでもいいことはぺらぺらとへらへら話すくせに。

 彼のいない日も、時間に余裕のある夜はキャンドルを灯していたので蝋は溶け切って底が見える。不安定にゆらゆらと揺れる炎の色は、否応なしに恋人のことを思い出させる。

 使い切ったら怒るだろうか。怒らないだろうな。あの人、わたしにはほとんど怒らないから。そこまで考えて笑う。気を惹きたくて怒ってほしいなんて、まるでこどもだ。

 怒られたい。火は危ないからってキャンドルウォーマーを買ってくれたのに、それを使わなかったこと。勝手に彼のいない間に蝋を溶かし尽くしたこと。職場で少しだけ顔を合わせたときにするへらへらぺらぺらした雑談じゃなくて、もっと。顔を合わせてゆっくり話したい。会いたい。一緒に暮らすことになって物理的な距離は縮まったはずなのに、何だか前よりもずっとずっと遠く感じる。

「名前ちゃんは普通の恋愛をしたいのに、俺みたいな男に捕まっちゃったね」
「俺みたいな男とは」
「誕生日もクリスマスも年末年始も一緒にいられない男」
「自分で全部言っちゃいましたね」

 穏やかにそんな話をしたのはいつだったっけ。思い出せないくらい昔のことなのかもしれない。

 ゆらゆらと不安定に揺れる炎を見つめる。どうして。どうしてあの人じゃないとだめなんだろう。その答えはどれだけ考えても出ない。離れられることができたら楽なのかもしれないなと思うけれど、この部屋を出るという選択肢が浮かぶはずもなかった。

 この部屋を飛び出して、仕事も辞めて、九州を出て、遠いところで暮らす。そうすればあの人とのつながりなんて簡単に断ち切れるんだろう。きっとあの人はわたしを探さないだろうし、わたしはテレビの向こうで活躍する彼を見つめるだけ。液晶画面の向こうの傷だらけの元カレを見て、心配で心がちぎれそうになりながら、手をあわせて祈るだけ。ビルボードチャートの結果に一喜一憂して、本人はきっともっと下位がいいって溜息を吐いてるんだろうなって、思い出して微笑むだけ。

 容易に思い描けるその光景は少しも自分の心に響かない。きっと全然幸せじゃない。それなら、言葉を交わせなくとも近くであの人の帰りを待っていた方が何百倍もマシだろう。

 傍にいてほしい。肌寒い夜は身を寄せ合って眠りたい。だけれどこの部屋の空調は暑くもなく寒くもないので、そんな必要ないかと思いふふっと笑みがこぼれる。

 傍にいてほしいけれど、それよりも怪我をしないでほしい。無理しないでほしい。彼には一生言えないことを思いながら、キャンドルの炎を消す。灰の香りがふわりと香る。エンデヴァーの香りって、きっとこの香りなんだろう。あの強い炎に焼かれた何もかもは、きっと濃い灰の香りがするに違いない。

 間接照明の灯りを落として、シーツに包まる。彼の香りは、しない。柔軟剤の香りだけ。

 ――あなたが好きだ。どこにも行けないくらい。“普通”であることを喉から手が出るほどに求める普通でないわたしが、それを諦めるくらいに。目を瞑る。ゆらゆらと頼りない炎が、彼の羽根の色が、瞼の裏にちらちら見えるような気がした。

(221008)