幸せな夢を見ていた。あまりにも幸せで、失ったものがすべてある夢だったから、一生見ていたいなと思った。もう二度と会えない家族たちとの大切な思い出を追憶するような夢だった。夢というよりは走馬灯に近い。幸せな記憶が映画のように流れていく。懐かしい気持ちで見ていると、見知った赤い羽根が視界を過った。

 初恋の男の子の記憶だった。自動車事故に巻き込まれたわたし達家族を、助けてくれた男の子。恋人と同じ赤い羽根だったんだ。いや、同じ羽根というか。もうこれ、絶対そうじゃん。本人じゃん。髪型も眉毛もそのままじゃねーか。それにめっちゃ羽根飛ばしてるじゃん。既視感しかない。映像の中の幼いわたしは、何やら興奮した顔で男の子に話しかけている。

「ありがとう!すてきな個性ね。ヒーローみたい!」
「………ウン」
「お名前教えて」

 その男の子が唇を開いた瞬間だった。

「…………え、いまの走馬灯?都合のいい夢?」

 頭を抱えて起き上がると、腕が突っ張った。左腕に点滴がついている。白い清潔な部屋。病院だった。しかも無駄に広いし窓辺には真っ赤なお花が飾ってある。確か上司が重傷で死ぬかもしれないという状況で、馬車馬のように働きながら個性を使いまくりとりあえず楽天でりんごを買ったというところまでは記憶にある。決済までいったっけ……?とりあえずポイントアップの対象だったけどエントリーするの忘れたんだよな……まあエントリーしてる暇なんてなかったし…そう考えながらとりあえずナースコールを押す。たぶん疲労で倒れたんだろう。飲まず食わずで集中してたからなあ。個性も久しぶりに使ったし疲れちゃったんだな。うんうん。そう考えていると控えめにノックがされた。

「名字さん!目を覚まされたんですね!」
「この度はご迷惑をおかけしたみたいで……」
「先生を呼んできますね。具合はどうですか?」
「平気です。すっきりしてます」
「何よりです。あ、ちなみにご主人には連絡されましたか?」
「………ごしゅじん?」
「守秘義務があるので安心してください。ちゃんと印鑑押しましたから!」
「えーっとよく意味が」
「ホークスですよ!大切な人なので信頼できる施設で治療を――って!わざわざセントラルまで!」
「………んん?え、ここ、セントラルなんですか?九州ではなく」
「はい。自分はもう退院するからって名字さんをこちらに。名字さんの個性は脳を使いますからね。過労ではなくて脳に何か異常があったらって大変心配されていましたよ」
「退院!?あの人退院したんですか!?」
「ええ」
「名前ちゃん!?」

 ドアが開かれた。割と満身創痍になっている上司がそこにいた。過労で倒れたわたしよりも、完全にこの人の方が満身創痍じゃん。わたしの様子を見に来ていた看護士さんは、頬に両手を当てている。ホークスファンなのだろうか。

「あの、先生呼んでくるの、もう少し後の方がいいです?」
「いや呼んでください。彼女に何かあっては困るので」
「圧倒的愛……推せる……わかりました!すぐに呼びますね!」

 声がいつもと違う。違和感に首をひねると、何やら彼は高速でフリック入力を行っていた。わたしが適当に見繕ったサポートアイテムの一つを身に着けてくれているらしい。役に立てたようで嬉しい。少し仰々しいけれど。

「お説教の前に体調は?」
「すっきりしてます」
「頭が痛いとか重たいとかない?念のために検査も受けてもらうよ」
「え、大丈夫です!ずっと寝てなかったし個性使いっぱなしだったしただの過労だと」
「名前ちゃんの大丈夫は信用ならん」

 一刀両断であった。超高速フリック入力が気になるところであるが、つっこめる雰囲気ではなかった。わたしはこの人に怒られたことは殆どない……いやある……?あるか……?いやほぼないと思うのだけれど、茶化したら本気で怒られそうな気迫があった。

「失礼しまーす」

 看護士さんがお医者様を連れてやってきた。わたしの上司は「心配なので」という顔を崩さないまま、じっとわたしとお医者様の問診の様子を眺めていた。何ならわたしよりも積極的に質問をしている。ただの過労なのに……大事にするのはやめてくれ……世間は大変なことになってるだろうし……そう考えていると、禄でもないことを考えているなという目で上司に睨まれた。わたしは思わず下を向く。

「それでは明日、精密検査を行いましょう。MRIを行う予定ですが、奥様に妊娠の可能性は?」
「ありません。ないよね?」
「あ、ハイ」

 最期にこの人と身体を重ねたのは何か月も前であるし、あるわけがなかった。不順というわけでもないし。うんうんと頷きながら、お医者様も何故このひとに聞く?このひとも何故食い気味に答える?と疑問が過ったが考えないことにする。つっこめる雰囲気ではなかった。他にもいくつかつっこみたいポイントはあったが、お医者様の「お大事に」という言葉でとりあえず問診は終わった。疲れた。

「あとお説教の前にお礼」
「え」

 足音が完全にしなくなったことを確認したあと、上司はひそやかにつぶやいた。先ほどまではパイプ椅子に腰かけていたが、今はわたしのベッドに腰かけている。何なら手を握られている。片手は絶えずフリック入力をしているようであるし、両手が塞がって不便ではないのだろうか。

「ありがとう。名前ちゃんの速すぎる対応のおかげで助かったよ。資料のおかげで情報集めるのも楽だった。このサポートアイテムも」
「よかった!」
「だけど個性を使って危ないことをしたのは頂けない」
「う」
「公安や警察の内部調査の資料もあるね?ヒーロー向けに開示された情報と相違がある。悪いことしたでしょ」
「え、えへ」
「しかも飲まず食わずで個性使いっぱなしでぶっ倒れるし。目が覚めたときの俺の気持ちちょっとは考えて」
「……ひどい!わたしだって心配しました!」
「ごめんね」
「……ずるい」

 ぐっと眉を下げられて掌を握りこまれて、秒で許してしまった。我ながら単純すぎる。

「脳を使う個性の人が、個性の使い過ぎで危ない状況になった事例を見たことがあるから。万が一にも過労で倒れたわけじゃないとなると困る」
「……ごめんなさい」
「過労でも困るけど。俺の為に頑張ってくれたからそこは強く言えない」
「……わたし、役に立ちました?」
「……その言い方はフェアじゃない気がして好きじゃなか」
「……」

 勝手なことばかり言う目の前のボロボロな上司に、何か一言言ってやりたい気持ちになった。わたしは言わなくてもいいことを、呟く。

「そもそもわたしとあなたはフェアじゃないじゃないですか」
「……こんな状態の俺、追い詰めると?」
「そもそも奥様じゃないです。結婚してないもん」

 目を見ると絶対に絆されるので、拗ねるように視線を逸らす。幼稚じみた自分の行動が嫌になる。彼は溜息を吐いた。面倒な女だと思われたのだろう。そんなの、自分が一番よくわかっていた。

「……確かに」
「……うん」
「俺の方が好いとうけん。フェアじゃなか」
「……」

 普段は標準語で話すこの人が意図的に地元の言葉を使う時。こちらの気を惹きたいときだ。方言を使う方が相手との距離を縮められるだろう。大いに頷ける。それを、ここで、効果的だと思って使ってくるところが、大変、癪に障った。

「……もういいです。忘れてください」
「怒った?ごめんて」
「怒ってない」
「怒ってるじゃん。……聞きたいことあれば全部答えるよ。遅かれ早かれ暴かれることになるだろうし」
「別にないです」
「いやないことはないでしょ」

 彼の掌が、掌から離された。そのまま肩を抱かれる。距離が一気に縮まる。

「俺が捨てたものも、こうならなかったら一生誰にも話さなかったことも、君が望むなら――」
「いや別にいいです。聞きたくない」
「えっ……俺に興味なさすぎ……やっぱりフェアじゃなか……」
「ホークスさん、わたしがどうしてフェアじゃないって言ってるか意味わかってます?」
「隠し事が多いから?俺が君に籍を入れようって言えない男だから?」
「ちがーう!そんなことはどうでもいいんです!」
「えっ……今回公表されたことも?隠してたから怒ってるんじゃなくて?」
「選べなかったことについて、何かを言うのはおかしいです。わたしだってワケアリだし。人には突かれたくないことのひとつやふたつあるでしょ」

 わたしの言葉に目から鱗が出そうなくらいに、上司は大きな目を開いている。

「恋人でも、部下でも。あなたの一番近くにいられるのは嬉しい。だけど、最近になってその境界線が曖昧になったじゃないですか。何か月もお話してないし」
「……うん」
「あなたはヒーローだから、事情があるんだろなって思った。だから恋人じゃなくてもいいから、部下として役に立てたらって思って」
「……恋人じゃなくてもいい?」

 聞き捨てならないという声色で反芻されたが、無視することにする。

「できることをしようと思って力を尽くしたことを、無碍にされたら腹が立ちます。役に立ったよありがとうって言ってくれればそれでいいのに」
「……要するに俺は別れ話をされてる?」

 別にそうは言っていない。せっかちすぎる。話纏めすぎ。雑誌で何度か目にしたことがある“女心がわからない男”の典型的な例に当てはまりそうだ。わたしの呆れたような表情を見て、彼は焦ったように距離を詰めてきた。顔が近い。

「別れ話はしてないです」
「よかった。これだけ心身ともに満身創痍になった挙句、可愛い恋人にまで捨てられたらだいぶしんどい」
「……そう言えばわたしが絆されると思ってるでしょ」
「はは、名前ちゃんは優しいからね、俺は悪い男だから付け込むよ」
「何か吹っ切れてません?」
「腹を括ったから。縛るものがなくなったのが大きいかな」
「腹を括る」
「戦うしかない。敵は勿論、世間とも」

 覚悟を決めた瞳が、わたしの瞳をとらえた。酷い人だな。改めてそう思う。言いたいことは殆ど伝えられなかった。心配だったこと。無理をしないでほしかったこと。もう戦ってほしくないと思ったこと。ぼろぼろで、満身創痍で、もう怪我なんてしてほしくない。羽根が失われたのなら、飛べないのなら、もう、危ないことはしないでほしい。彼の恋人だったら伝えられる一切合切を、飲み込む。わたしは彼の恋人であるけれど、同時に一番古い部下だから。覚悟を決めた上司に、意地悪く嘯く。

「その羽根でですか」
「……普通それ言う?まあいいけど、これから散々聞かれるだろうし」

 彼は笑う。口元は隠れているが、目が細くなった。

「羽根の有無は関係ない。俺は人を救ける」
「どうして?」
「わかってるのに聞く?ヒーローだからだよ」

 わたしの上司は、わたしのヒーローは、吹っ切れたように笑う。ずるいくらいにかっこいいと思った。

「俺からも聞いていい?」
「どうぞ」
「この羽根でも、一緒に飛んでくれる?」
「……わたしは飛べないよ」
「間違えた。俺の掌で踊ってるつもりだっけ?フェアじゃないから言い方を変えようか」

 彼は口元のサポートアイテムを外す。久しぶりに現れた口元を見つめる。彼は「見過ぎ」と小さく、震える声で呟いた。

「俺と一緒に踊ってくれる?それとも。その靴じゃあ踊れない?」

 視界が滲む。覚悟を決めたと思っていた。同じ言葉を耳にした、あの日の夜に。だけれどそれは勘違いだった。わたしは、潤んだ声で呟く。

「靴?」
「裸足だからとかスリッパだからとか散々断られたし。俺気にしてんの。一生根に持つよ」
「ええ……忘れてよ……」
「はは。無理」

 覚悟を決める。一生、この男の掌で踊る覚悟を。一緒に、なんて詭弁だ。人間の本質は変わらない。わたしは一生、この酷い男の言いなりだろう。この男を思いやる言葉も、行為も、彼の意に添わなければすべて蔑ろにされる。反発しても言い包められ、距離を置こうとしても絆される。だけれど、それでも。

「仕方がないから付き合ってあげます」

 この酷い男の手を、どうしても離せない。わたしの恩人で、上司で、恋人で、ヒーロー。羽根がなくても。本質は変わらない。この酷い男はきっと、人を救い続ける。一生。背中の羽根が全て失われたとしても。彼の望む、「ヒーローが暇を持て余す社会」に世界が変わったとしても。もしもヒーローが不要になる夢のような世界に変わったとしても、この人は一生ヒーローで在り続けるんだろう。自分の身を挺して、自分を犠牲にして、羽根がすべて灼け落ちても他者を救うんだろう。その隣で、わたしがあなたを救い続けられたらいいのに。そう思った。そこがたとえ地獄だとしても。

「ありがとう」

 言葉はもういらないから、喉を休めてほしい。殆ど羽根のない背中に縋りながら、そう強く思った。

(210502)