「んん……っ、ま、って、んっ、」
「待てない」
「靴、脱ぐ、」
「……また靴?これも一生根に持つよ。靴脱ぎたいからエッチ中断させられたって」
「や……っ、ん……っ、」

 根に持つというよりは記憶力がいいのだ。唇をあわせながら抱き上げると、5センチだか7センチだかの彼女ハイヒールは簡単に玄関に転がった。足だけで自分のスニーカーを脱ぎ、寝室へ向かう。これが最後かもしれないのだ。がっつくのも仕方がないだろう。

 価値観の擦り合わせは骨が折れる作業だ。今回は強引に話を進めたので俺に抱かれることを嫌がるかと思ったがそうでもなかった。安心した。嫌われたくはない。

 「何も考えずに俺のところに来て。何も考えずに家にいて。きっと一番安全だから」そう言えたらどれほどよかっただろうか。正直言おうか物凄く悩んだ。だけれどそれでは、彼女の自由を奪っていたあの組織とやっていることが同じになってしまう。

 公安から例の仕事が舞い込んだ時に、正しく彼女の手を離せなかった自分が悪いのだ。自分勝手に別れを切り出したくせに、未練がましくも再び彼女の手を取ってしまった自分が。隣にいてくれさえすれば、恋人でも部下でも何でもよかったはずなのに。――いやそれは盛った。俺は彼女の交友関係に口を挟みたいし、弱っているときには抱きしめたいし、疲れているときは触りたい。

 敵連合に深く潜り込むということは、相手にこちらのカードを見せるということだ。名字名前が俺の持つ数少ない手札の中で最も弱いカードであることを、連合に悟らせるわけにはいかない。彼女との関係も勿論であるが、それを抜きにしても。犯罪者の目には彼女の個性は酷く魅力的に映るだろう。公安が「上手く使え」と言ってくるくらいだ。物事を解析するという彼女の個性があれば、サイバーテロもマネーローンダリングも容易にできる。人を殺して強引にでも犯罪組織が欲しがった個性だ。

 部下として近くに置いておくよりも、恋人として近くで見張った方が都合がいいと思った。世間知らずな彼女がかどわかされないようにできる限りのことをした、つもりだ。きっとこれからは自分にも監視がつくだろう。彼女を表立って守ることもできやしない。そうなると、どうしても安全な場所にいてもらう必要があった。事務所の隣にある俺の部屋は、オートロックもついていない彼女の部屋よりは遥かに安全だろう。

 小さな後頭部に手を回す。過程に拘ることにした今回は、正直言うとかなり面倒だった。結果として彼女は俺の意向を汲むことになるだろうとは予想はしていたが、機嫌を取るのは骨が折れた。時間も余裕もない交渉は雑になる。彼女は不服そうな表情を浮かべていたし、きっと納得していないだろう。

 名字名前は他人の感情の機微に聡い。場の雰囲気を読むことにも長けている。彼女のいた環境を鑑みれば不思議なことではないだろう。彼女は決して、俺のパーソナルな事象に踏み込んでこない。捨てた名前も、過去も。見限ったものたちについて、彼女は何も追求しない。求められたくないものを口にしなくても理解してもらえる。とても楽だった。

 結果として自分の思い通りに事が進んだわけではあるが、内縁の妻っていうのはちょっと悪手だったな。彼女の身体に手を這わせながら反省する。可愛い彼女と同棲したいという方向で最初から攻めるべきだった。内縁て。籍も入れられない男だと見限られなくて本当に良かった。

「ホークス、さん」
「なに?」
「………呼んだだけ、です」

 「この名前とは、今日限りでさよならだ」世界が変わった日のことを、なぜだか思い出した。本名を口に出したことなどない。きっとこれからもそうだ。俺はホークス。速すぎる男。それ以外には、何もいらないと思っていた。

「名前ちゃん」

 俺の掌で踊らされていると思い込んでいる俺の大事な女の子は、名前を呼ぶと嬉しそうに笑う。名前を呼ばれることが好きだと知っているので、喜ばせたくて何度でも呼ぶ。最中に耳元で名前を呼ぶと、彼女の粘膜が甘えるようにひくつくのが、可愛くて愛おしくて仕方がない。

「名前呼ばれてイっちゃった?かわいいなあ」
「ん……っ、んっ、」

 もしも生まれ変わったら、君の掌で踊りたい。君の些細な言動で情緒をぐしゃぐしゃにされて、どろどろに溶かされたい。君がいないとだめになりたい。自分らしくもないことを考えて、笑う。滑稽だ。終ったら彼女に伝えてみようかと思ったが、返事はわかりきっているのでやめることにする。

 「生まれ変わっても、ホークスさんは人を救うでしょ」そうだ。俺は酷い男だから、何度でも君を蔑ろにするんだろう。信じてもらえないだろうけれど、これだけは言わせてほしい。俺は君を支配したいんじゃない。俺の掌の上で、くるくる踊ってほしいんじゃない。本当は一緒に踊りたいんだ。何の柵もない世界で、自由に。素足で、二人だけの空で。

(210425)