「炊飯器も買わなくていい。家賃も払わなくていいし、職場からも徒歩5秒。比喩じゃないよ。飛んでも5秒。徒歩でも5秒。どう」 「……」 「メリットしかないよ」 速さを売りにする男の一方的なプレゼンに戸惑う。とりあえず口の中の肉を飲み込ませてくれ。良い肉は咀嚼に時間がかからないから、ちょっとだけ待って。そう思い制止を求めるように掌を彼の方へ向ける。彼は目を細めた。 「……わたしは愛人契約を持ちかけられてます?」 「はは。ンなわけないじゃん。どちらかというと俺の内縁の妻になりませんか?ていうお誘い」 「内縁の妻」 「同棲してる彼女でもいいよ。名前なんて意味を持たない」 「名前なんて意味を持たない」 「俺はきみのもので、きみは俺のもの。シンプルだ」 彼の言葉を反芻する。名前なんて意味を持たない。いや、持つでしょ。わたしの疑問は顔に出ていたらしい。彼は唇を開く。 「俺は名前ちゃんが傍にいてくれるなら部下でも恋人でもなんでもよかったんだよね。ただ部下よりも恋人の方ができることが増えるからそうなったんだけど」 「できることが増えるとは」 「名前ちゃんが悲しんでる時に抱きしめたり?一緒に風呂に入ったり?ほくろの数を数えたり?」 「茶化してます?」 「真剣だよ」 相変わらず飄々としているなあ。真剣な顔で言われる方が胡散臭いけど。真意を探るようにじっと見つめると、わたしの上司兼恋人は変わらぬ態度で呟いた。 「本音を言うと、これからちょっとバタバタするんだよね。あちこち飛び回って、自宅も事務所も留守にすることが多いから。名前ちゃんが家にいて管理してくれると嬉しい」 「年末はいつも忙しいですもんね。治安も悪くなるし」 「例年よりも、今年はきっと大変になるかな。詳しくは言えないけど」 「そうなんですね……」 今年はオールマイトの引退もあり例年よりも治安は悪くなるだろう。目に見える抑止力が失われたのは大きい。ふんふんと納得していると、彼はプレゼンを続けるために箸を置いた。皿にはまだハラミが残っているのに。 「ハラミ食べないんですか?」 「名前ちゃん茶化してる?食いたいなら俺の膝の上で食わせてあげるよ。食べながらお話しよっか、おいで」 「触れてほしくなさそうな話題だったから変えたのに!」 「ははは」 せっかちな男は嫌われますよ、とは言えなかった。目が笑っていない。水を差したらキレられる。普段は優しいのに、今日はいったいどうしたんだ。嫌なことでもあったのかな。そう思いながら大人しく口を噤む。 「不安は伝染する。ウイルスと一緒だ。不特定多数の負の感情は治安の悪化に繋がる」 「……はい」 「今の名前ちゃんの家よりも俺の家の方がセキュリティもしっかりしてるし。職場は隣だし」 職場はビルの一室にある。その隣に、彼の居住スペースは設けられている。日本全国を飛び回る彼のことだからいくつも住まいを持っているかもしれないが、メインとして使っているのは先日招待されたあの部屋なのだろう。無駄なことを嫌う彼のことだ。通勤時間は憎むべきものなのだろう。 「君は他のサイドキックとは違う。自分の身を守れない。それに自分が俺の弱味に成り得ること、ちゃんと自覚してる?」 「う、わかってるつもりです」 「じゃあ俺を安心させてよ」 口元に笑みを携えているが、目は笑っていない。口調は柔らかいが、わたしに選択肢はない。わざと弱さを見せて、逃げ場を塞ぐやり方はヒーローらしくないと言ってやりたいが言えるはずもない。わたしは、恩人であるこのひとに、滅法弱い。 「きっと家にも帰れなくなるくらいに忙しくなる。事務所に顔を出すのもきっと難しいかな。そんな時に、名前ちゃんが俺の家で待っていてくれると嬉しい」 「………」 機嫌を取られているなと、わたしの中の可愛くないわたしがそう思った。彼の真意はわからないけれど、確実にわたしを丸め込ませようとリップサービスをしている。反論したいところだけれど、わたしは彼の前では可愛い女でありたいし、ここで何を言っても無駄だということはこれまでのこの人との付き合いの中で痛感している。 ホークス事務所はワンマンだ。全てをボスが掌握しており、ボスの意向が絶対だ。ボスの人心掌握術や柔らかい口調、圧倒的なカリスマ性で独裁的にはなってはいないが。だけれど彼の決めたことは絶対だ。文句を言う人間は一人もいないし、いたとしても煽てられ理論で丸め込まれる。改めて自分の上司はとんでもない男なんだな、と思う。わたしは、この人の掌の上で踊り続けるしかないんだろう。 「わかりました」 「……ンな顔しなくても」 「早急に荷物を纏めて引っ越しします」 「費用は全部持つよ。更新のタイミングでもないだろうし」 「ありがとうございます」 「家具も家電も好きに買っていいよ。本当はイケアデートとかしたいところだけど、ごめんね」 「はい」 「業者は信頼できるところに頼むから、配送するときは相談して」 「……はい」 膝の上でぎゅっと両手を重ねる。わたしは彼からたくさんのものを与えられているが、彼自身に関するものは何一つ与えられていない。名前も、経歴も、思想も、何もかも。それでいいのだ。彼はわたしを救ってくれたヒーロー。彼は自分はわたしのものだというが、実際は違う。わたしは彼のものではあるが、彼はわたしのものではない。 「名前ちゃん」 「……はい」 「ごめんね」 恋人に同棲を持ち掛けられている女の態度ではないだろう。わたしは悔し紛れにつぶやく。 「優しくしてくれなくても、あなたの意向に従います。あなたはわたしの恩人だから」 「………だろうね」 「わたしはあなたの為なら何でもできるから。あなたの掌で余裕で踊れます」 「怒ってる?俺を怒らせたいの?名前ちゃんには絶対怒らないけどもしかして煽られてる?」 「怒ってないし怒らせたくないけどちょっと悔しいです」 「素直でいいこだね」 彼は目を細めた。その表情は柔らかい。 「俺の掌で踊ってくれる?それとも。その靴じゃあ踊れない?」 「靴?」 「裸足だからとかスリッパだからとか散々断られたし。俺気にしてんの。一生根に持つよ」 「ええ……忘れてよ……」 「はは。無理」 網の上の肉は焦げていた。勿体ないな。そう思い視線を落としたところで、彼は呟いた。 「俺の為に生きなくてもいいから、俺と一緒に生きてよ」 覚悟を決めなければならない、と思った。微温湯から出る、覚悟を。 (210425) |