「名前ちゃん?」
「………」
「名前ちゃん」
「あ、はい!ごめんなさい集中してて」
「いいよ。はい報告書」
「ありがとうございます」

 彼女の様子がおかしいのは、朝からだ。昨日の帰りは普通だった。「これから炊飯器を見に行ってきます」と楽しそうに帰っていった昨日の夜に、彼女に何かがあったのだろうか。話しかけても上の空であるし、表情も憂いを含んでいる。それはそれで何となく色っぽいが、そんなことを言ってる場合でもない。

「炊飯器いいのあった?」
「昨日は見に行けなくて」
「なんで?」
「ちょっといろいろとあって」

 名前ちゃんはそういって気の抜けたような表情で笑う。“いろいろ”というのが気になるが、聞き出せるような雰囲気でもなければ彼女が言い出す様子も見受けられない。

「今日一緒に見に行く?」
「………んー、」
「気が乗らない?疲れてる?」
「そうですね、疲れてるかも」
「何か食いたいものあれば連れてくけど。今日は鳥じゃなくてもいいよ」
「………うん」

 普段よりもテンションが低い。彼女は疲れていてもここまで態度には出さない。確実に何かがあったのだろう。そう思い口を開いた瞬間、事務所の電話が鳴り響いた。

「はい、ホークス事務所です。………はい、お世話になります」

 1コール目で受話器を取った彼女は、普段通り応対している。

「いえ、こちらこそ昨日は申し訳ありませんでした。少し体調が悪くて。あ、はい。タクシーで帰りましたので。大丈夫です」
「………」

 相手は誰だ。事務所にかけてきたというのにも関わらず、私用のような内容である。眉を顰めている俺を見て、勘の鋭い彼女は電話を切ろうと会話を切り上げようと試みているが、相手は中々切らせてくれないようである。

「はい、……はい、そうですね、はい……」

 名前ちゃんの相槌も段々と雑になってきている。これは本格的に私用の電話らしい。彼女は真面目なので、基本的に電話の応対はものすごく丁寧である。

「ごめんなさい、そろそろ会議がありますので……。いえ、あの、はい、そういうのはちょっと……」
「………」
「また何かありましたらこちらから御社にうかがいますので。はい、はい、それでは失礼いたします」

 漸く通話を終えられたようであった。名前ちゃんは受話器を音がしないように置いた後に、机に突っ伏した。

「……………」
「どうしたの」
「……………ちょっと休憩です。五分したら馬車馬のように働きます」
「体調悪い時は休んでていいよ」
「悪くないです」
「電話、誰からだったの」

 俺の言葉に、名前ちゃんは動きを止めた。何も言わない彼女を追い込むように、俺は呟く。

「男?」
「…………」 

 俺は彼女の上司であるが、それ以前に彼女の恋人であるので詮索する権利はあるはずだ。ものすごく自分が小さな人間に成り下がったようで、気分はいいとは言えないが。

「少し前に雑誌の取材で来た、女性誌の編集の方で」
「あー……………?」
「あのやたら“お土産”って言って女性もののポーチやら試供品やらを持ってきた」
「あー!あのいけ好かない」
「いけ好かなかったんですね……」

 取材と言われてもピンと来なかったが、お土産を持ってきた女性誌の編集者と言われて一人思い当たる人物がいた。やたら爽やかで女受けするような風貌をしているが、裏では相当遊んでいそうな口の上手い胡散臭い男であった。お茶を出す彼女を食い入るように見ていたことを思い出す。牽制するような俺の態度は全く意味をなさなかったらしい。

「“鳥仲間ですね”ってやたら聞いてもないのに初対面でアピールしてきたからさ。自分と似た個性を持ってるって示すことで相手の懐に入ろうとするのがやらしいよね」
「……そうですか?」
「例えば名前ちゃんが初対面の人に“わたしもパズルが得意なんです”って言われてやたら馴れ馴れしくされたら胡散臭いと思わない?」
「嬉しい」
「………そっか、嬉しいんだね」
「うん嬉しい」

 想像してみたら嬉しかったらしい。先ほどまでの覇気のない表情が少しだけ明るくなっている様子は可愛い。世間知らずすぎて心配になるところではあるが。俺は彼女の頭を撫でた後、本題に入る。

「それでその男が何で電話してきたの?」
「………話すと長くなるから仕事が終ったら言います」
「よいしょ」
「ちょっ……仕事中ですから!離して!」
「仕事の効率上げるためにも早く話してよ。俺は待てない男だからさァ」
「…………」

 片膝に乗せると、猫の様に暴れられた。逃げられないように拘束を強めると、名前ちゃんは観念したように話し出した。

「昨日の帰りに偶々声を掛けられて。お茶に誘われて」
「知らない男に着いて行ったらダメって言わなかったっけ?」
「仕事の話を餌に……。わたしがバカでした……」
「……何かされたの?」
「されてないです、けど」
「けど」

 彼女は俯く。そして迷うように呟いた。

「こう……ガツガツ来られて」
「……へえ?」
「距離を詰めようとしてるというか……。それでわたしが引いた瞬間に仕事の話にシフトチェンジしてくるというか」
「性質悪ィ男だな」
「え」
「何でもないよ、続けて」

 俺は恋人に優しい男なので努めて優しく声を掛けて頬を撫でると、名前ちゃんは目を細めた。猫のようである。可愛い。

「それでその…まあ何というか……昔の話をしたんです」
「は?」
「あ、そっちじゃなくて!わたしがその、攫われたときのことじゃなくて。もっと昔の」
「それって俺の知らない話?」
「知ってる話!初恋のこと!」
「あーそれかァ」

 俺ですら知らない話をあの男にしたのかと思うと苛立つが、何十回も聞いている話ならまあ許容範囲である。名前ちゃんは言いづらそうに、呟いた。

「幼いころにわたしを助けたのは自分だって、その人は言ったんです」
「………は、」
「奇跡だって。幼いころに助けた女の子に再会できたのは、奇跡だって。その人はそう言ったんです」
「………」

 ――俺が思っていた以上に、その男は狡猾らしい。舌打ちをする。大切にしていた宝物を、横取りされたような気分だった。腹立たしいことこの上ないが、それを彼女に伝えるつもりもない。

「それで?」

 怒りを抑えた俺の声は、思っていたよりも穏やかにその場に響いた。

「ずっと思ってました。あの時のあの人に会えたら、お礼を言おうって。そう思ってた。だけど」
「うん」
「言えなかったんです。お礼を言えなかった。それどころか」
「……うん」
「どうしようって思ったんです。どうしよう。昔のわたしを知っている人に、再会してしまったって」
「………」

「わたしは家族を失いました。だけど、友達を失ったのは自分の意志です。連絡を取ろうと思えば取れたと思います。だけど取らなかった。怖かったから。わたしはきっと“何か大変な事件に巻き込まれて攫われた被害者”として扱われる。昔のわたしを知っている人にも、きっと全員に」
「………」
「わたしは自ら望んで全てを失ったんです。妙な噂から逃れたかったから実家にも帰らないし、親戚にも会わない。友人にも。何もかもいらない。だけど」

「その人は奇跡だと言って、わたしを繋ぎとめようとしてくる」

 俺の大事な女の子は、肩を震わせている。それを見ていられなくなり、ぎゅっと抱きしめる。彼女は俺の背に、手を回さない。

「あの時助けた女の子が、今はこんな風になってるなんて知ったら、どう思うんだろう。そう思うと怖くなりました」

「わたしが普通の女の子だったら、きっと奇跡を信じたんだと思います。だけどわたしはそうじゃない」

 俺の大事な女の子は、頑なに自分を“普通の女の子じゃない”と言い張る。今日の天気でも告げるような声色で。

「奇跡は起きない。わたしを助けた人が、今のわたしを知ったらどう思うんだろう。折角助けたのにって、そう思うのかな。そう思ったら、心臓が痛くてたまらない」

 彼女は俺の腕の中で、どんな表情をしているのだろう。泣いているのだろうか。わからない。俺は呟く。今日の天気でも告げるように、淡々とした声色で。

「名前ちゃん」
「……はい」
「痛みを忘れる方法教えてあげよっか」
「教えてください」

 彼女はゆっくりと顔を上げる。俺は彼女の唇を親指でなぞり、呟いた。

「痛みば重ねることばい」

 彼女の腰を抱く。勘の鋭い彼女は、数日前の痛みを思い出したようであった。彼女ははっとした表情を浮かべた後、俺の目を見て呟いた。

「ホークスさん」
「うん」
「もっといたくして」

 女の子が痛みを感じるのは、初めの一度きりなのだろうか。俺は男なので知る由もない。こういう時こそ知恵袋の出番だよな、と馬鹿なことを考えながら、俺は彼女の首筋に顔を埋める。

「名前ちゃん」
「……はい」 
「俺は好きな女の子には優しくしたい男だから、そのお願いは聞けないかもしれないなァ」

(181007)