「名字さん?名字さんですよね!?」 「……はい?」 名前を呼ばれて振り返ると、そこには見知った顔の男の人がいた。この人は確か――、 「先日は取材でお世話になりました!」 「いえいえ、こちらこそ。あの雑誌売れ行きがいいですよ」 「本当ですか?」 「はい。さすがナンバー2ヒーローですね!」 先日雑誌の取材で事務所を訪れた人であった。女性誌の取材だったからか、女性の好みそうな質問や写真が多かったのを覚えている。上司は普段通り飄々とこなしていた。お土産と言って、雑誌の付録を何点か持ってきてくれたこの人は割とわたしの中で好印象である。 「お仕事帰りですか?」 「はい。そちらは」 「仕事帰りです。よかったらお茶でもどうですか?」 「え?」 「先日の取材の件でも話したいことがあって」 わたしは目を瞬かせる。お茶に誘われてしまった。それに戸惑った表情を浮かべた瞬間に、仕事の話を挟まれる。これは「彼氏がいるのでそういうのはちょっと…」と断っていいものだろうか。いやだけれど純粋にこの人は仕事の話をしたいのかもしれない。わからない。わたしの低すぎる経験値ではわかるはずもない。ち、知恵袋……知恵袋で調べる時間をくれ…。そう思ったがそんなことを言えるはずもない。わたしは一瞬考えたあとに、呟いた。 「少しなら」 「よかった。もう少し名字さんと話してみたかったんです」 わたしは、選択を、間違えたのだろうか。わたしの返答に顔を綻ばせる目の前の男の人の表情に、迷いが生じる。彼はわたしの前を歩いていく。わたしは彼の背中を見た後に、呟いた。 「羽が」 「羽?」 「羽があるんですね。個性ですか?」 「ああ、そうなんです」 「飛べるんですか?」 「いや浮かぶ程度ですよ。ホークスと比べたら微弱なもんです」 「いい個性ですね」 「ありがとうございます。名字さんの個性は?」 「知恵の輪を秒で解ける」 「えっすごいですね!?知恵の輪は…持ってないな」 「そうですよね」 隣に並び、シアトル系のカフェチェーン店へ入る。 「名字さんは何にされます?」 「えーっとこれにします」 目の前の男の人は流れるように注文を済ませ、流れるように会計をした後にわたしへ振り返った。わたしは慌てて財布から小銭を出す。 「お金!」 「いいですよこれくらい」 「ダメです!」 「じゃあ次は名字さんがご馳走してください」 「え」 流れるように次の約束を取り付けられた。わたしはここで漸く、自分の選択が間違いだったと痛感する。 「こ、今度御社にお礼をもってうかがいます…」 「いや個人的にですよ。名字さんは面白いな」 距離をガンガン詰められているのを感じる。これは一刻も早くドリンクを飲み終わりこの店から出ないといけない。焦ったわたしの様子が伝わったのか、その人は口を開く。 「あの特集、すごく好評だったんですよ」 「ああ、上司の」 「はい。あの……例のビルボードチャートの時に、かなり不遜な態度だったじゃないですか」 「ああ……あれは大変でした……」 「ちょっと生意気な若者っていうイメージがついていたんですが、うちのインタビューでは真面目な人柄が垣間見れて。女性ファンが増えたと思いますよ」 「真面目なこと言ってました?」 「ええ。恋愛には一途だとか。ヒーローだから逃げられると燃えるとか。ちょっと強引なところがいいってうちの女性記者も言ってましたよ」 「は、はあ……」 イメージ戦略にも繋がるのでインタビューの記事には一度目を通すようにはしているが、そんなことを言っていたとは全く覚えていない。 「名字さんはどうなんですか?」 「え」 「上司として、彼のこと」 わたしは目を瞬かせた後、決まりきった答えを呟く。 「最高の上司です」 「信頼してるんですね」 「はい。一生ついていく所存です」 「すごいな。どうしてそこまで彼を?」 わたしは決まりきった答えを隠す。この人に話すべきことではない。 「尊敬してるから」 「どうして?どこを?」 「難しいことを聞きますね」 「知りたいんです」 どうしてそんなに知りたいのだろうか。わたしは自分の話を人にするのがあまり好きではない。 「こどもの頃に、羽の生えた男の子に助けられたことがあって」 「……へえ?」 「彼をその男の子に重ねちゃうんですよね。きっかけはそれで、だけど一緒に働くうちに」 「それ」 これは嘘ではない。事実だ。わたしの言葉を遮った目の前の男の人は、はっとしたような、何かに気付いたような表情を浮かべてわたしを見ている。 「それ、俺かもしれません」 「………え」 「名字さんに、聞こうと思ってました。初めて会った時から。どこかで会ったことはないかって」 「あ、あの」 「奇跡だ。信じられない」 目の前の小さな羽を有した男の人は、じっとわたしを見つめている。何かが軋んだような音がした。 「うそ」 「うそじゃない」 鼓動が早まる。心臓が痛い。どうしてこんなにも痛むのか、わからない。 「奇跡だ」 痛む胸を抑える。奇跡など存在しないと、わたしは今までの人生で痛感している。だから、そんなことを言わないでほしい。 「名字さん。……下の名前で呼んでも、いいですか」 “普通の女の子”だったら、奇跡だと喜ぶのだろうか。運命だとはしゃぐのだろうか。幼いころに自分を助けてくれた、初恋の人との再会に。出会って“しまった”と、上手く喜べないわたしは、やっぱり普通じゃないのだろうか。普通の女の子にはなれないのだろうか。 目の前のこの人は、わたしのすべてを知ったらどう思うのだろう。幼いころに助けた人間が、折角自分の身を挺して助けた人間が、全てを失っていると知ったら。わたしはもう、あの時助けられたわたしじゃない。事故に怯え、助かって安堵して何事もなかったかのように笑える普通の女の子じゃない。 口角を上げ、笑顔を作る。わたしは上手く笑えているのだろうか。わからない。 (181007) |