深夜の洗面室で、俺の大事な女の子は仰々しく呟いた。

「化粧水がない………」
「化粧水くらいならあるよ、無印の」
「乳液は?」
「さすがにそれはない」
「やっぱりわたし帰ります……」
「いやいや何時だと思ってるの」
「だって明日も出勤なのに!!化粧品も持ってないし!!」

 化粧水のボトルを手渡すと、風呂上がりのつやつやした肌の俺の大事な女の子はそれを手に出しぺたぺたと顔に塗っている。

「化粧してなくても可愛いから大丈夫だって」
「大丈夫なはずがない」

 名前ちゃんは鏡の前で真顔で俺の化粧水を塗りたくっている。これを塗り終わったら、この女の子は本当に家に帰ってしまうのだろうか。それは惜しい。俺は鏡の前に立っている彼女の薄い腹に手を回す。

「朝、俺がコンビニまで買いに行ってくるよ」
「ホークスさんが?何買えばいいかわかんないでしょ」
「とりあえず置いてあるもの全部買ってくるから」
「とりあえず全部ってなに!?全部もいらない!!勿体ないじゃないですか!」
「女の子の化粧品なんて何がいるのかわかんないからさァ」
「タクシーでいまから家に帰る」
「嫌や、帰したくない」
「えー」

 彼女の身体を抱きあげて寝室へ向かうと、非難めいた視線を向けられた。

「今日だってこんなことになるならもっと気合を入れたのに」
「気合?」
「下着もちょっとよれてたんです!!やっぱりこういうときは新品じゃないですか!!」
「そうだっけ?正直男は下着なんて見てないよ」
「気持ちの問題!!あと前日にスクラブしとけばよかった……こういうこともあろうかと折角サボンのスクラブ買っておいたのに……」
「スクラブ?」
「肌がつるっつるになるんです」
「十分つるっつるだよカワイイカワイイ」
「適当すぎる」

 名前ちゃんは溜息を吐き、呟いた。

「明日、コンビニ寄ってから早めに出勤して、顔をなんとかしてから業務に取り掛かります」
「なんとかしてって」
「だから早めに出るのでホークスさんはいつも通りのお時間にどうぞ」
「えー、一緒に出勤しようよ」
「わたしは毎日一番に誰よりも早く出勤するって決めてるんです!」
「それ前から思ってたけどよくわからない拘りだよね」
「コンビニに着替えも売ってるかな……予期せぬお泊りがこんなに大変だなんてネットには書いてなかった」
「またネットかよ」

 名前ちゃんはぼそぼそと呟いた後、はっとした顔をして俺を見つめた。

「わたし、なんだか可愛くないことばっかり言ってますよね!?」
「ううん」
「え」
「こういう時でも真面目なところが逆にそそる。可愛い」
「え、あっ、」

 俺の言葉に頬を染めて俯くその様子は、立派な“普通の女の子”だ。彼女は友達がいないことを気にしているし、家族がいないことも気にしている。だけれど立派に、“普通の女の子”として、生きている。それが嬉しくて堪らない。彼女を救った男としても、彼女を愛する男としても。



 ――コンピュータに囲まれた大きなデスクに張り付きながら、身を縮こませて必死にキーボードを叩いていた彼女の様子を思い出す。大きな音を立ててドアを壊したというのにも関わらず、彼女はその音など聞こえていないとでもいうかのように、神経を尖らせて目の前の与えられた物事に集中していた。割れたガラスを踏み、部屋の中に侵入したときに漸く彼女はこちらを振り向く。そして絶望的な色の中に、少しだけ別の色を混ぜた声色で呟くのだ。

「あなたはだれ?わたしをころしにきたの?」

 まるでそれを願っているかのような声色で。

 無体なことをされている様子は見受けられなかった。仕立てのよさそうな服を着て、大きなデスクにちょこんと小さく座っている様子は、育ちの良いシャム猫のようでもあった。あの犯罪組織にとって、必要な人材だから手厚い待遇を受けているのだろう。そう、一目見ればわかるような環境であった。

「………俺は君を助けに来たヒーローです」

 安心させるために呟いた言葉を聞いても、彼女の表情は強張ったままであった。おいでと手を差し出しても、彼女はその手を取らない。その時に、一瞬思ってしまったのだ。――俺は本当に、彼女を助けに来たヒーローなのか?と。


 名字名前は俺に並々ならぬ恩義を抱いている。俺の為なら死ねると平気で言う。それは俺が彼女を攫った組織を壊滅させたことが理由ではない。

 全てを奪われて攫われた彼女は、自分が全てを奪われたのだということを、俺に助けられて気付いたのだ。彼女は自分が攫われた、両親が殺されたという事実を受け入れないために、必死でキーボードを叩いていたのだろう。脅されているとはいえ、何か一つのことに集中するということは、何も考えなくていいということと同義だ。

 失った悲しみも、これから先への不安も、考えることを放棄していた時に、現れたのが俺だったのだ。俺が彼女をあの部屋から連れ出したことで、彼女は漸く気付いたのだ。自分は全てを失ったのだと。

 普段は被害者のアフターケア等は警察に任せる。ヒーローはあくまで助けることが仕事だからだ。だけれど入院中の彼女に会いに行ったのは、単なる自分のエゴだ。証明したかったのだ。自分は正しいことをしたのだと。そして助けられることを望んでいないように見受けられた彼女の表情が、忘れられなかったからだ。下心しかない。だから彼女の手を強引に引いて、空を飛び、職を与えた。偽善的である。彼女の為ではない。自分の為だ。だから彼女が自分に恩義を感じる必要など微塵もない。


「ホークスさん」
「ん?」
「わたしにできることがあったら何でも言ってくださいね」
「何で?」
「わたしはあなたに貰ってばかりだから」
「あげたいからあげてるだけなんだけどなァ」

 助けられることを望んでいなかった女の子が、こうして俺の腕の中で安心しきった表情を浮かべているだけで十分だ。俺は彼女に普通の人生を送ってほしい。普通の女の子の様に些細なことで笑って、わけのわからないものを可愛いと言って、オチのない長い話をして、男には理解しがたいことで怒ってほしい。俺に助けられてよかったと思ってほしいとは思わない。些細なことで楽しそうに笑う彼女の隣にいるのが、俺以外の男でも構わない。………というのはさすがに盛った。できれば俺がいい。

「じゃあ初恋の男の話してよ」
「またですか?その話好きですねホークスさん」
「甘酸っぱい気持ちになれる」

 俺の大事な女の子は、目を細めて呟く。

「こどものころに、家族みんなでお出かけしたときに事故に遭ったんです」
「うんうん」
「その時に助けてくれた、羽の生えた男の子。もう顔も覚えてないけど。かっこよかったんですよね、ヒーローみたいで」
「会いたいって思う?」
「どうかな。お礼を言いたい気持ちはもちろんありますけど」
「そっか」

 俺が初めて助けた女の子は、眠たそうに目を擦る。俺はその様子を見て呟く。

「もうひとつお願いしていい?」
「どうぞ」
「もう一回したい」
「………明日の業務に支障がでません?」
「むしろ頑張れる」
「………」
「………」
「ど、」
「ど?」
「どうぞ………」
「ふはっ、」

 噴出した俺の様子を見て、彼女は目を丸くする。俺は彼女の額に口づけた後、呟いた。

「おやすみ」
「えっしないの!?」
「今度はお泊りセット持ってきてよ」
「……次は絶対ジェラピケのパジャマ持ってきますからね!!」
「はいはいカワイイカワイイ」
「適当!!」

(181006)