名字名前は伏せていた目線を上げ、目の前の男と視線を合わせる。長い回想に耽っていたのは、彼女も同じだった。何てことはないとでもいうかのように、彼女はアヒージョにバケットを浸す。

「冷めたら美味しくないよ、アヒージョ」
「はァ!?ンなもん、熱くすればいいだろーが」
「便利な個性だね」

 耐熱皿を彼の掌に載せれば、多少は温かくなるのだろう。便利すぎる個性を羨ましく思いながらも、名字名前は呟く。

「今ね、勝己くんとの馴れ初めを思い出してた」
「あ?」
「わたし、なかなか個性のこと言い出せなかったなあって」

 彼女は微笑む。そして呟いた。

「勝己くんとの未来を、考えたことはないよ」
「………は、」
「だって無個性のこどもが生まれたらどうするの」
「………じゃあお前は一生一人で生きてくのかよ」

 プロヒーローを難なく絶望へ突き落したことも知らず、彼女はその問いに答える。それは更なる絶望へ、背中を押すことと同義であった。

「わたしさあ、ツヴァイに登録したんだよね」
「はァ!?」

 国内最大級規模の、結婚相談所である。

「条件にね、個性へのこだわりとかあるんだよ。知ってた?」
「知るわけねーだろ!つーかお前、それ、浮気じゃ」
「登録しただけで男の人とは会ってないよ」
「当たり前だろ!!」

 プロヒーローを恋人に持ちながらも婚活に勤しんでいることを暴露した女は、熟成肉に手を伸ばす。

「個性婚が廃れても、やっぱりパートナーの個性を気にする人は多いみたいだね」
「関係ねーだろ」
「あるでしょ、勝己くんはプロなんだから」

 名字名前は視線を下げる。

「個性にこだわらない人も勿論たくさんいる。いいよツヴァイ」
「今すぐやめろ」
「何で」
「俺がいるのに婚活するとはいい度胸してんじゃねーか、あァ!?」
「勝己くんとお付き合いしてるからだよ」
「あ?」

 彼女はフォークを置く。

「いつか個性のことで捨てられた時のために、保険をかけてるの」

 彼女は微笑む。何てことはないとでもいうかのようなその表情に、男の心は軋んだ。

「チェックだ」
「え?」
「会計。帰る」

 機嫌を損ねたプロヒーローに対し、無個性の女は肩を竦めた。そして呟く。

「怒った?」
「怒ってねーよ!」
「怒ってるじゃん」

 名字名前はため息を吐く。

「勝己くんは、きっとわたしと別れてきちんとした個性を有した女の子を選んで結婚する。わたしよりきれいで、可愛くて、きっと性格もよくて尽くしてくれる子だと思う」
「………お前は尽くさねーからなァ!」
「わたしはきっとツヴァイで婚活を成功させて、個性に頓着しない人と結婚し――――、きゃっ、」
「帰るぞ」

 強引に理想を語る女の腕を掴み、カードを投げて会計を済ませる。一瞬である。その後、何やら騒がしい女を黙らせるかのように助手席に押し込んだ。

「まだ食べてたのに!お肉美味しかったのに!」
「っせーよ!不味くなるような話題を出したのはお前だろうが!」
「最初に将来のことを振ってきたのは勝己くんでしょ!?」
「あァ!?」
「………駅まででいいよ」
「帰すわけねーだろ」
「え」
「つーか、早くあのボロ部屋引き払ってこい」
「…………いやあの、明日も仕事だし。帰るよ」
「俺の家からの方が近いだろ」
「………いや明日仕事だし着替えとか」
「置いてあるだろーが!しつけーんだよ!」
「だから!仕事だから家に帰る!」

 男も女も酷く頑固であった。だけれど主導権を握っているのは、ハンドルを握っている男の方である。帰ると騒いでいる女の意見をガン無視し、男は自宅へ車を走らせた。

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「え、ほんとにするの?」

 相変わらず嫌味なほどに豪華なつくりの部屋の天井を見ながら、名字名前は呟いた。部屋につくなりにベッドに放り投げられた女の表情は、若干引き気味である。

「………やめろ」
「何を」
「だからツヴァイだよ!!」

 爆豪勝己は、まさか人生の中で「ツヴァイ」という単語を口に出すとは思わなかったと自分でも思った。自分とは縁遠い単語であるからだ。

「やめたら、捨てられたらどうすればいいの」

 名字名前は、淡々とつぶやいた。いつものような、なんてことはないとでもいうかのような声色ではない。色がない声色に、男は至極当然のようにつぶやいた。

「誰に」
「勝己くん」
「……………だから何で俺が!お前を捨てる前提なんだよ!」
「………わたしが無個性だからだよ」

 その声色は、酷く痛々しく広々とした部屋に響いた。プロヒーローは目を瞬かせる。この女は、まだそんなことを気にしているのかと。

「どうでもいい」
「え」
「お前の個性なんて1ミリも興味ねーわ。昔からずっと」
「………ええー」

 女の声は情けなく響いた。

「勝己くんが興味がなくてもね、こどもが無個性だと悲しいんだよ親はきっと」
「つーかお前の遺伝子が俺の遺伝子に勝てるわけねーだろ」
「え」
「弱肉強食だろ」
「………ええー」

 男は女の首筋に顔を埋める。そしてヒーローとは思えぬ悪い顔で呟いた。

「手っ取り早く試すか」
「え」
「ガキができればわかるだろ」

 そのまま首筋に落ちた唇に、女は思わず焦った声を出した。

「い、いやいやちょっと待って!そういう勢いは!だめ!」
「はァ!?お前がうだうだうだうだツヴァイツヴァイ言ってるからだろ!」
「だって捨てられた時のために!もう若くないし!」
「だから捨てねーっつってんだろ!お前にいくら遣ったと思ってんだ!先週靴買ってやっただろーが!」
「だ、だって無理やり付き合わせてるのかなって!告白もわたしから言わせたようなものだし、とりあえずキープ的な」
「はァ!?」

 キープという言葉に、男は血管が切れそうなほどに青筋を立てている。さすがにベッドの上でこれはまずい。そう思った女は本能的に危険を察知し、プロヒーローに唇を重ねた。

「………お前は、」
「うん」
「どういう条件で選んでんだ」

 キスの直後にツヴァイの話である。女は目を瞬かせ、呟いた。

「………個性にこだわりがなく、わたしの我儘を聞いてくれて、生活力のある、わたしのことが大好きな人と結婚したいと思ってる」
「…………」
「ほら引いてる!いないことはわかってるよ!だけど理想くらい、」
「俺だろ」
「え」
「名前」

 名前を呼ばれたことが、ほとんどない。好きだと、言葉に出されたことも、ほとんどない。名字名前は落ちてくる唇を受け止めながら、そう思った。だから、保険をかけていたのだと。

「明日、仕事だから一回だけだよ」
「………チッ、」
「勝己くんは?」
「とりあえずオフ」
「平和だといいね」

 冷蔵庫には何があるのだろう。女はそう思った。朝は早いけれど、朝食くらいは作ってあげたい。そう思った。夜明けのことを彼の部屋で考えるのは、これが初めてだった。今までは一度も、爆豪勝己との将来のことについて、考えたことがなかったのだから。

(170312)