「あ……っ、だめ、ぬいちゃ、だめぇ‥……っ、」
「……はっ、まだ足りねえかよ」
「ん……っ、もっと、おく、」
「奥?」
「おく、こんこんって、して……っ、」

 この女の口から聞いたことがないような言葉ばかりが飛び出る夜である。至近距離で瞳を合わせると、甘えるようにキスを強請られる。この女はキスが好きだが、普段の比ではない。甘ったるい声で強請られると、どうしても吸い付いてしまう。これはもはや条件反射のようなものであり、この女の言いなりになっているわけではない。断じて。

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「これは違法な薬ですね」
「……っ!」
「落ち着いてください。奥様はご無事です。症状は時間とともに収まりますし、副作用や後遺症も見られないでしょう」
「………症状は」

 あの後一番近い病院へ車を飛ばした。初老の医者は言いづらそうに検査の結果を呟く。彼女は横になって眠っている。

「全身の麻痺が起きた後――、奥様は、女性として大変危険な状態になります。旦那様がしっかりとケアをなさって下さい」
「危険な状態?」

 濁して言うんじゃねえという威圧感を放つと、医者は言いづらそうに口を開く。

「催淫作用と――排卵を促す作用がある薬です。数時間後に症状が現れるでしょう」
「………は、」
「個性により医療もかなり進んできましたが――、酷い薬があるものだ。奥様は女性としてはかなり無防備な状態になるかと思います」
「………」
「旦那様がついていてあげてください」

 混乱の後に訪れた感情は、怒りであった。あのサイコインテリ眼鏡が彼女をあのまま連れ去っていたらと思うとぞっとする。マジで既成事実を作るつもりだったのか。舌打ちをすると、医者は口を開いた。

「しかし事件に巻き込まれたとはいえ、ご無事で本当によかった」
「……感謝します」

 薬を迅速に特定し、更には警察への連絡を迅速に行ったこの医者には頭を下げざるを得ない。更には患者の具合が思わしくないから等と尤もらしい詭弁を並べ、事情聴取を先延ばしにする気の回しっぷりである。侮れねえじいさんだと思い礼を口にすると、初老の医師は照れたようにつぶやいた。

「実は私の孫がシュガーマンのファンでして」
「………」

 じいさんに全く連絡を取っていないかつてのクラスメイトとのファンミーティングを開催してやることを約束し、ぐったりとしている名前を回収して車に乗せる。あのじいさんの言っていることが本当だとするのならば、一刻も早く家に連れ帰らないといけない。そう思い車を飛ばし、自宅へ着いた瞬間だった。玄関のドアを開けた後、縋るように強く抱きしめられたのは。

「………どうした」

 一瞬だけ、あの盛られた薬の効果が早々に出たのかと思ってしまった。が、それは一瞬で勘違いであったと気づく。腹に回る彼女の手を解き、向き直り瞳の色を確認する。泣き出しそうな色をしていた。

「………」
「かつきくん」

 この女との付き合いは長い。名前を呼ばれただけで、何の事象に対して悲しんでいるのか、悟ってしまう程度には。弱っているようなので、仕方がないから腕を広げる。名前は何のためらいもなく、俺の腕に飛び込んできた。

「わたし、無個性でよかったなんて、思ったことない」

 だろうな、と思ったが口にするほど愚かではない。この女は弱い。弱く、脆いくせに、ここぞという時には強さを見せる。それが強がりであるということに気付く人間は、きっと俺以外にはいないだろう。

 あのサイコインテリ眼鏡に言い放った言葉は詭弁だ。虚勢だ。無個性であることを死ぬほど気にしている女が、無個性でよかったと思っているはずがない。抱く力を強くすると、名前は呟いた。

「勝己くんは」
「……何だ」
「わたしが無個性だから、わたしを選んだの?」
「………」

 答えは決まっている。俺は言いたくもない言葉を呟く。

「個性があろうがなかろうがどうでもいいわ」
「………うん」
「お前だったら、」
「………うん」

 その先を言わない俺に、名前は腕の中で小さく笑みをこぼしたようだった。

「わたしはこれから先もずっと無個性で」
「……」
「これからも勝己くんに沢山迷惑かけるけど、それでもいい?」

 わかりきったことだ。それでも女は、言葉を求めたがるらしい。

「余裕だわ。俺が甲斐性なしみてェな言い方するンじゃねえ」
「……うん」
「そもそもダメっつったら、お前は俺の手を離すんか」

 名前は俺の顔を見上げ、呟いた。

「勝己くんじゃないとだめだから、もう離せない」

 それは紛れもない、唇をふさぐ合図だった。

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 彼女の薬の効果が現れたのは、寝室でもつれ合っていた最中であった。普段より甘ったるく名前を呼ばれ、キスを強請られる。悪くない、と思った。

「かつきくん……っ、かつきくん……っ、」
「っは、」

 キスをしながら頭を撫でてやると、名前の粘膜はキュウキュウと甘えるように俺のそれを締め付ける。薬の作用で普段よりも乱れているこの女に中てられたかのように、俺も興奮しているらしい。ガキかよと自嘲してしまう程に。

 縋る相手が俺しかいないとでも言うかのように、名前は名前を呼びながら俺に手を伸ばす。悪くない。俺がいなくても生きていけるようなこの女が、俺がいないとだめだとでも言うかのように手を伸ばして必死に縋る様子に、堪らない、と、思わないこともない。

「名前」
「ん……っ、ん、」

 特別に甘やかしてやらないこともないから、俺しかいないと言えと呟けば、この女はきっとそう口にするのだろう。そう思いながら、唇を落とした。

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「しにたい」
「あ?縁起でもねェこと言ってんじゃねーよ馬鹿か」
「………」

 ベッドから起き上がれない様子の彼女は、掠れきった声でそう呟いた。今日は仕方なく寝室までクロックムッシュを焼いて持ってきてやった。名前はそれに目を輝かせた後、呟く。

「わたし昨日………あんなに……はしたないことを……」
「覚えてんのか」
「断片的に……」
「明け方まで足りねえっつって強請ってきたもんなァ?」
「お付き合いいただきありがとうございました……そもそもわたしの腰は死んでるのに勝己くんは平気そうなのが……」
「ンなヤワな鍛え方してねーわ」
「さすがヒーロー……」

 名前の手を引き、起き上がらせる。そのままベッドヘッドと彼女の身体の間に身体を割り入れ、彼女の身体を膝の上に乗せる。そのままナイフとフォークで切り分けてやると、名前は焦ったようにつぶやいた。

「じ、自分で食べれる」
「零したらどうなるかわかってんだろうなァ…?」
「こわいこわいこわい」
「まだ痺れが残ってんじゃねーか」
「………」

 名前は掌を閉じたり開いたりしているが、いつもより動きがぎこちなく見える。俺の腕を掴む力も、普段よりも弱い。舌打ちをした後、彼女の口にクロックムッシュを突っ込んでやる。噎せていた。

「あのサイコインテリ眼鏡はパクられたってよ」
「言い方……。何で?」
「盛った薬が違法だったらしい」
「あー胡散臭かったからなあ。無個性の女性にしか効果はないとかなんとか……」

 そう言いながら、名前は俺の腕を掴む力を強くした。強くした、とは言え麻痺が残っているからか普段よりも弱い力であるが。何てことはないというかのように振る舞っているが、薬を盛られていいようにされかけたというのは中々のトラウマになりかねない。この女がこれ以上妙なことを拗らせても面倒である。

「味はどうだ」
「美味しい。勝己くんはオシャレなものも作るの上手だよねーお店開けるよー」
「開かねえわ」
「えー開いてよ。わたし通うよ」

 彼女の口元へフォークを運ぶ。彼女は咀嚼して飲み込んだ後、振り返り俺を見つめる。目を瞑られたので唇を落としてやると、名前は呟いた。

「助けてくれてありがとう」
「普通だろ。礼を言われるようなことでもねーわ」

 自分のものを守るのは当然のことである。甘えるように首筋にすり寄られるのは、悪い気はしないが。

「名前」
「なに?」
「昨日てめぇが言ったこと覚えてるか」
「……どれ?」

 名前は首をかしげる。心当たりがないらしい。もう一度言わせようかと夜中に何度も葛藤した台詞である。覚えていないなら別にいい。そう思い再びクロックムッシュにフォークを突き刺そうとした、瞬間だった。

「わたしは勝己くんじゃないとだめだよ」

 フォークが手から滑り落ちる。シーツへ落下したそれを見て、名前は俺の耳元で楽しそうにつぶやいた。

「こぼしたらどうなるかわかってんだろーなあー」

 物真似は似ていない。全く。

(181215)