死ぬほどくだらない仕事の話は婚約者の上司の宣言通り、手短に終わった。時間を確認した俺を見て、その男は呟く。

「今日は名字も定時で帰る予定なので、待ち合わせでもされたらどうでしょう」

 余計な世話にも程がある。適当にかわしたところで、彼女に仕掛けてあるいつものGPSを確認する。まだこのビル内にいるようだ。さすがにビル内で落ち合うのはナシだろう。一旦車をここから出して適当な場所で拾うか。そう思い、地下の駐車場へ向かう。エレベーターに乗り込んだ瞬間だった。

「………あ゛?」

 彼女に仕掛けてあるもう一つの装置が、彼女の異常を告げている。脈拍がおかしいようだ。何かあったのだろうか。急いで彼女に連絡を取るが、繋がらない。どこだ。この建物内にはいるはずだ。彼女の部署がある階は――、そう思い地下についた瞬間にボタンを押そうとした、その時だった。

「………っ、名前!」

 ストライプのスーツを着た男が、気を失ったように見える自分の婚約者を車に乗せようとしていたのは。思わず頭に血が昇り、見知らぬ男に詰め寄る。その瞬間だった。その男が俺を見て驚いたような顔をした後、口を開いたのは。

「まさか名字さんの婚約者がプロヒーローだったとは」

 その男は、俺を見て微笑んだ。その笑みは常人のそれではない。何かに狂ったような、まるで敵が浮かべるような笑みであった。それを見て俺は確信する。この男は、善意を持ち名前を車に乗せているのではないのだと。俺は心の広い男であるので、怒鳴りつけたい衝動を抑えて努めて丁寧な口調でサイコインテリ眼鏡に口を開く。

「………自分の婚約者です。返してもらえますか」
「返して?まるで物ですね」

 その男は目を細めて楽しそうに呟く。自分の勘はあたっていた。この男は紛れもないサイコパスである。

「体調が悪いようなので、彼女を病院へ送っていくだけですよ」
「………彼女に何を」
「ひどいな。倒れた彼女を助けたのは僕ですよ」

 胸倉を掴み怒鳴り散らしたい衝動を抑える。この男が犯罪者であるという確証はない。助手席に乗せられた名前は、気を失っているようだ。強引に腕を引こうかと思ったが、彼女の状態が分からない。下手に動かしては不味い状態であったとしたならば、強引に取り返すわけにもいかない。ぐったりとしている彼女の様子に、焦りと苛立ちが募る。早くこの男をどうにかし、名前の安否を――、

「僕の方が彼女の心をわかってあげられる」
「………あ゛?」
「僕も同じ無個性ですから。無個性同士、分かり合えるし尊重し合えると思いませんか。ヒーロー?」
「………何が狙いだ」

 煽られている、そう認識した瞬間に口調が崩れた。口調を崩した俺を見てサイコインテリ眼鏡は、声を上げて笑った。

「どうしても彼女が欲しいんです。名字名前さん。若くて美しい、無個性の彼女が」
「………どういうことだ」
「無個性同士が結ばれれば、無個性の子が生まれる確率が高くなる。そう思いませんか?」

 その男は続ける。

「無個性人口は年々減り続けている。こどもを作れる若くて美しい無個性の女性に出会う確率は低い。彼女しかいない。だからどうしても欲しい」
「………物扱いしてるのはテメェだろうが」

 倫理観がぶっ壊れている。この男の思想が全くわからない。一昔前に話題になったという「個性婚」のようなものなのだろうか。全く理解できない。沸いた怒りを抑えるように拳を握ると、その男は演説を続ける。

「とんでもない。僕は無個性である彼女に価値を見出しているんです。僕と一緒になれば、彼女には“無個性でよかった”と思える人生を約束しますよ」
「……」
「貴方にはきっと、彼女と分かり合える日は来ない。当然ですよね。個性がある人間には無個性の痛みを知ることができない」

「だけど僕は違う。同じ無個性だ。分かり合えるし、“無個性だから”という理由で彼女を選んだ。一生大切にしますよ」

「無個性が選ばれることはないんです。選ばれない苦しみを、あなたに理解できますか?」

 今、ここでこの男を殴ったとしたら。処罰を受けるのは俺になるはずだ。この男はそれを知って、俺が手を出すことを望んでいるのだろう。ヒーローが善良な一般人に手を出したと騒ぎ立てるに違いない。この男の振る舞いはサイコパスそのものであるが、犯罪を犯しているわけでもない。彼女に何か危害を加えているのかどうかもわからない今の状況では、力でどうにかできる問題ではない。

 どうすればいい。考えろ。説得は無駄だろう。脅しをかけたところで、彼女に何か危害を加えられては困る。そう思い口を開いた瞬間だった。

「かつき、くん」

 か細い声が駐車場に響く。助手席のシートにもたれかかったまま、名前は弱弱しく俺の名前を呼んだ。そしてそのまま、消え入りそうな声で呟く。

「わたしは、あなたとは、わかりあえない」

 彼女の言葉を聞いた瞬間、サイコインテリ眼鏡は破顔した。自分の演説がこの女に効果的だと思ったらしい。逆だとなぜわからないのだろうか。

「わたしは、」

 名前は苦しそうに呟く。

「わたしは無個性でもいい。今でもずっと、そう思ってる」
「………は、」
「だから、あなたとは、わかりあえない」

 名字名前は、サイコインテリ眼鏡を真直ぐ見つめて、そう言い切った。そしてゆっくりと立ち上がり、俺に向かって手を伸ばした。

「………身体は」
「………かつきくん」

 倒れそうになる名前を抱き上げ、呆然としている男を見る。俺はそのまま、思っていることを呟いた。

「俺は今、犯罪者だと確信を持てねえサイコインテリ野郎をぶっ殺すことはできねえが」
「ひっ、」
「この女に何かあったら、堂々とぶっ殺してやるからな」

 威嚇すると小物らしく悲鳴があがった。サイコパスにしては肝が小さい男だ。そう思いながら俺は最後に余計なことを吐き捨てる。

「あとテメェ、倫理観破綻してっから結婚は無理だな」

 中指は立てなかった。俺は行儀のいいヒーローだからである。

(181215)