「条件をのんでくださりありがとうございます」
「……いえ」

 のんだのではない。のまされたのだ。俺の不服そうな態度に、婚約者の上司は笑う。

「しかし貴方の副業嫌いは有名ですから。イメージキャラクターになってくださったら良い宣伝になります。有難いことです」
「………」

 ヒーロー活動以外の仕事は、最低限に抑えている。この職業は副業を許されているのでメディアへの露出が多い同業者も多くいる。好感度や認知度に繋がるからだ。だが、自分はなるべく余計な仕事は受けないようにしている。本来ならこの仕事も断りたいところであるが、そうもいかない。

「名字に感謝です、本当に」

 数か月前に、ジギタリスというクレイジーサイコ敵が世間を騒がせた時期があった。そのクレイジーサイコ敵が“無個性を狙う”と公言した際に、彼女の会社に勢いで乗り込み、無理やり彼女の有休をもぎ取ってやった。その際の交換条件が――今回の仕事である。

「彼女にはこのことは」
「内密にしますし、誰にも公表するつもりはありません」

 婚約者は随分と強かな上司のもとで仕事をしているようだ。“事件が解決するまで名字名前に自宅待機を命じる代わりに、自社のイメージキャラクターになってほしい”そんな突飛な交換条件が瞬時に思い浮かぶとは。あの時は彼女の安全は自分にとって何よりも優先すべきものであったので、頷くほかはなかった。あの女は弱いただの一般人であるからだ。

 彼女はこのことを知らないし、知らせるつもりもない。あの弱い女が自分で自衛できる事象に対して自衛しなかったということであれば腹が立つし怒鳴りつけるが、あれは自分で自衛できるものでもないだろう。

「打ち合わせは手短にしましょうか。人気ヒーローはお忙しいと思いますので」

 今日、彼女の職場に来ていることも彼女は知らない。知らなくていい。あの女に恩を着せるつもりはない。恩を着せたところで何かが変わるはずもない。そう思い書類に目を通す。くだらない企画だと思ったが、仕事だと割り切るしかない。

;
「名字さん?」
「あ、こんにちは」

 エレベーターを待っていると、先日懇親会で顔を合わせた人と鉢合わせた。例のわたしと個性が同じである人だ。会釈をすると、その人は微笑んだ。

「今からお帰りになるところですか?」
「はい。名字さんは?」
「わたしも帰りです」
「よかったら送っていきますよ。今日は直帰ですし、車で来ていますので」
「お気持ちだけ。寄るところがあるので遠慮しておきます」

 早くエレベーターは来ないだろうか。さすがによく知らない男の人の車に乗るのはよくないと思い断ると、その人はあっさり引き下がった。

「そうですか。残念だな。1階ですか?」
「はい、ありがとうございます」

 エレベーターに乗り込むが、わたし達以外に乗客はいなかった。誰か途中の階で乗ってきてほしい。きっとこの人は来客用の地下の駐車場に車を置いているだろうから、長い間二人っきりというのは会話を振らねばならないし終業後のテンションでは厳しい。そう思っていると、先日あのダイニングバーでも香った、甘い香りがした。

「香水ですか?」
「え?」
「懇親会でも思ったんですが、甘い香りがするなって」
「ああ、気付きました?」

 その人は心底嬉しそうに微笑んだ。そして一歩、距離を詰められる。

「香水は別のものをつけているんですが、これはお香のようなもので」
「お香を焚かれるんですか。素敵ですね」
「普段は焚かないんですけどね。今日は名字さんに会えるかと思って」
「………え?」

 もう一歩、距離を詰められる。その瞬間に、香りを強く感じた。甘いと脳が認識した瞬間に、視界が歪む。思わずエレベーターの壁に手をつくと、その人は愉快そうに笑った。

「貴方が無個性というのは本当なんですね。よかった。先日の懇親会では効き目がなかったようでしたから。個室じゃなかったからかな」
「……なに、い、って、」
「もうすぐ体中に痺れが回って、立てなくなると思いますよ」

 視界が揺れる。立っていられない。しゃがみこみそうになった瞬間に、誰かに身体を支えられた。

「……っ、な、に、」
「この香は特殊なんです。無個性の女性にだけ作用する。歩けないようだから、家まで送りますね」
「……………っ、」
「だけど住所がわからないな。僕の家で休んでいかれますか?」

 耳元で、誰かの声が聞こえる。わたしの身体を支えているのは誰だろう。耳元で話す人は誰だろう。頭が痛くて、何も考えられない。

「かつ、きくん」

 わたしは誰の名前を呼んだのだろう。何もわからない。

(181215)