「………ンでこんなとこにいるんだよ」
「ちょっと知り合いに似た人がいて」
「今の男か?」
「うん。顔見た?」
「見てねーわ」
「あまりにそっくりだったから、話しかけたけど他人だったの」

 わたしの詭弁は目を細めて不機嫌そうにしているこの人に、通用しているだろうか。通用しているだろう。わたしの演技力は雄英に入学してからも、衰えることなくめきめきと向上しているという自負がある。

「怪我は」
「もう大丈夫だよ。クロックス貸してくれてありがとう」
「別に」
「戻ろっか。わたしはともかく、爆豪くんがいないとみんな心配するよ」
「………別にしねーだろ」
「するよ。帰ったんじゃないかって」
「………」

 わたしはそう呟き、彼の手を引く。――八木さんは、わたしの心の闇を晴らせるのは自分ではないと言った。だけれど、わたしは爆豪くんに思いを吐露する気はない。八木さんには言えても、この人には言えない。好きな男の子に、酷い自分を見られたくない。

「爆豪くん?」

 名前を呼んだ瞬間だった。引いたはずの手は彼によって引かれ、わたしは爆豪くんの胸に収まった。――抱きしめられている。彼女でもないのに。わたしは平静を装って呟く。

「………どうしたの?」
「言え」
「え?」
「ンでお前は俺に助けを乞わねーんだ。怖いならそう言え。可愛げがねーんだよ」
「………え、」
「大丈夫じゃねえだろ。痛いならそう言え。変な気を遣うんじゃねえ」


 ――本当は、怖かった。置いていかないでと縋りたかった。傍にいて欲しいとも。氷漬けにされた敵を見て、氷の壁の中で、一人きりで助けを待っていたあの時間が、とてつもなく長いと思った。敵が現れたらどうしよう。この足では逃げられない。不安で堪らなかった。だけど、泣き言なんて言えなかった。

 足は今でも痛む。いつになったら引きずらずに歩けるのだろう。いつになったら、普通の靴が履けるのだろう。いつになったら、この痕は消えるのだろう。一生消えなかったらどうしよう。一生痛んだらどうしよう。怖くて、怖くて、堪らない。

 だけど言えなかった。ヒーロー科のみんなはともかく、自分と同じ無個性の彼女ですら、前を向いて凛としていたのだ。彼女の個性のことを知ったのは事態が落ち着いてからであるが、ヒーロー志望でもない彼女が前を向いているのに、自分だけ弱音を吐けるはずもなかった。

 だけれど本音を隠したところで、彼女のような強い人間になれるはずもない。わたしは、本当は、嫉妬しているのではない。彼女の光によって浮き彫りにされた自分の弱さに、絶望しているのだ。

「足が痛い」
「だろうな」
「怖かった」
「……だろうな」
「怖かった」
「………」

 爆豪くんは、わたしの虚勢に気付いていたのだろう。だからきっと、氷に囲まれたわたしを急いで迎えに来てくれたのだろう。だから、屋上でもわたしを庇ってくれたのだろう。

 わたしは彼の胸に縋る。背中に回った手が、痛いほどわたしの身体を締める。彼の掌は熱いが、その温度はわたしを傷つける温度ではない。

「仕方ねえから泣かせてやる。仕方ねえからな」
「うん」

 この世界は、無個性には生きにくい。絶望することばかりのこの世界で、わたしは何度も泣きたくなる。だけれど一々泣いていては身が持たない。だから泣かないようにしている。人前では特に。だけれど、この人の前でなら、泣いてもいいのかもしれない。そう思ってしまった。図々しくも。爆豪くんは、わたしの彼氏でもないのに。

;
「………ひでー顔だな」
「………鏡持ってない?」
「持ってるわけねーだろ」
「そんなにひどい!?泣いたってわかる!?」

 俺の顔を覗き込む目の前の女の瞳は赤い。鼻で笑った俺の表情を見て、名前は察したらしい。どうしようと嘆いている目の前の女を眺める。

 目を赤く腫らして、俺の上着を着て、俺の靴を履いている。そう考えるとクるものがある。堪らない、と思わない、こともない。

「爆豪くん?」
「………あ?」
「どうしたの?」

 俺の顔を覗き込む女の、鎖骨に目が行く。普段は何も思わないが、昨日は噛みつきたい衝動に駆られたことを思い出す。ついでに項もだ。女の肌に歯を立てたいと思ったことが今までにあるはずもない。この女が妙な服を着ているから悪いのだ。そう思いながら乱れた髪を耳にかけてやると、名前は目を瞬かせて笑った。

「……ンだよ」
「彼氏みたいなことするなあって」
「………」

 名前はそう呟いた後、続ける。

「ね」
「あ?」
「これから、大丈夫じゃなかったら、大丈夫じゃないって、言っても、いい?」

 悪態をつこうかと思った。だけれどやめた。この女の声が、震えていたからだ。俺は言いたくない言葉を、仕方なく言ってやる。目の前の、目を赤く腫らした、俺の上着を着て、俺の靴を履いている、弱い女のために。

「好きにすりゃいいだろ」
「………うん」
「………その時は、仕方ねえから守ってやる」

(180811/「八木さん」)