久しぶりに戻った自宅は荒れていた。この状況から察するに、名前は俺がクソモブ共に洗脳されている間、ここではなくあの狭い部屋へ帰っていたらしい。その事実に舌打ちをすると、名前は呟いた。

「わたし今日は帰ろうかな」
「あ?」
「勝己くんも疲れてるだろうし。わたしも疲れたし、お家に帰る」
「………」

 名前の表情を盗み見る。確かに疲労困憊とでもいうような面である。本気で帰りたそうだが、帰してやれそうにもない。踵を返そうとする名前を抱き上げると、暴れられた。

「ちょ、ちょっと、降ろして、帰る」
「帰すわけねーだろ」
「………わたしのこと忘れてたくせに」
「だからだろ」

 頬に唇を落とすと、名前は俺を見つめる。

「泣いたのか?」
「………嗚咽した」
「誰の前で」
「………誰の前でも泣けるわけないじゃん……」

 名前は俺の胸に顔を埋める。この女が泣くことは殆どない。以前にクレイジーサイコ敵に襲われて死にかけた時も泣かなかったような女だ。一人で泣いたと聞いて、泣かせているのは自分だというのにも関わらず腹が立った。だけれど他の男の前で泣かれるよりはマシだ。

「名前」
「なに、」
「………、」

 今回の件は、完全に自分に非がある。だけれど、この女があっさりと自分と別れを告げようとしたことが、堪らなく気に入らない。当たり散らしたいが、そうもいかない。自分に非があるからである。逸る気持ちを落ち着かせるように、呼吸をする。そして意を決して、言いたくもない真実を呟いた。

「―――愛してる」

 名前は、零れ落ちそうなくらいに目を大きく見開く。こんな陳腐な言葉を口にしたことは人生で初めてだ。ということは、この女も耳にするのは人生で初めてだろう。口に出した瞬間に後悔した。言わなければよかったと。だけれど言わなければいけないと思った。目の前の女を、傷つけたのは俺だ。嗚咽するほどに泣かせたのは、俺だ。

「………うそ」
「嘘じゃねーわ」
「もう一回言って」
「もう二度と言うことはねえ」
「………そっか」

 首に顔を埋めると、名前はくすぐったそうに身を捩る。

「抱き潰して泣かすからな」
「え」
「泣けてねえんだろ」

;
「のどかわいた」
「………」

 舌打ちをする。ベッドサイドに置いてある常温の水を渡すと、名前は不服そうに掠れた声で呟いた。

「冷たいのがいい」
「うるせえ」

 取りに行くのが面倒というわけではない。冷蔵庫までは距離がある。この女を抱き上げてそこまで行くのは手間だ。だからと言って、この女を置いて取りに行くのは癪だ。目を真っ赤にした名前は、掠れた声で呟く。

「痛いよ」
「うるせえな」

 今は離れる気分ではないと口に出せば、この女は呆れるのだろうか。大袈裟だと笑うのだろうか。わからない。この女を下敷きにして抱き潰していたが、それでは水が飲めないだろう。起き上がらせて膝の上に乗せ、後ろから拘束すると名前は痛いと身を捩る。

「どこにもいかないから大丈夫だよ」
「……」
「そもそも勝己くんだからね、わたしを捨てようとしたの」
「………うるせえな」
「だから指輪も捨てようと思ったんだ」
「は?」
「だけど外せなかった。わたしは指輪も外せないんだなあって落ち込んだよね」
「……」

 中指のそれを名前は目を細めて見つめる。外せないように特殊な仕掛けを施してあると言おうかと思ったが、やめた。騒がれると面倒である。

「だけど今回はさすがにダメかと思った」
「あ?」
「だって勝己くんが、今更無個性モブのわたしに興味を持つとは思えないし」

 この女は何を言っているのか。そう思い口を開く前に、名前は続ける。

「昔、八木さんに言われたことを思い出したの」

 この女はなぜかオールマイトと親しい。オールマイトをそう呼ぶ人間を、俺はこの女以外で見たことがない。

「個性のことで我慢しなくていいって。何にも縛られずに、自由に、自分の人生を肯定してくれる人と生きればいいって」
「………」
「だから、勝己くんが無個性モブのわたしを受け入れてくれないなら、離れて生きるのも一つの選択かなと」
「名前」
「え」

 水を取り上げ、ベッドへ引き倒す。名前は目を瞬かせている。

「………怒った?」
「そうじゃねえ」
「怒っても今日はもうしません」
「そうじゃねえ」
「じゃあ何?」

 この女には、個性がない。この女が、今までどれだけ何かを諦めてきたのか、どれだけ我慢を強いられていたのか、俺にわかるはずもない。理解しようとも思わない。この女は、俺に同情されることを望んでいない。理解してほしいなどと思ってもいないだろう。そういう女なのだ。

 俺が記憶をなくしても、泣いて縋りつけと詰るのは簡単だ。だがこの女がそのような行動に出るはずがない。今までだって散々何かを諦めてきたのだろう。文句の一つも言わず、黙って、何とでもないような顔をして、笑って許容してきたのだろう。

「明日籍入れんぞ」
「………はい?」
「指輪も明日買ってやる」
「え」
「式場も明日決めろ」
「………何で?」

 名前は俺の言葉に眉を顰める。普通は喜ぶべきところじゃねえのか。

「個性なんてどうでもいいわ。あってもなくても俺の物だろ」
「?」

 脈絡のない言葉に、展開に、この女は混乱しているらしい。俺は呟く。この女は大変面倒であり、変なところで意地を張り頑固であるが、畳みかけるように進めれば案外押しに弱い。

「自由に生きる?何にも縛られない?好きにすればいいだろ」
「え」
「お前は好きにすりゃあいい。俺が一生縛ってやる」

 名前は目を見開いた。視線と眉が下がる。泣き出しそうな顔だと思った。

「またわたしのこと忘れちゃうかも」
「死ぬ気で思い出してやるわ」
「わたしのせいでまた何かに巻き込まれたり」
「余裕だわ」
「……わたし縛られずにのびのび生きたい」
「我儘な女だなてめーは!!一生俺の隣でのびのびしてろ!!!」

 俺の言葉に名前は潤んだ瞳を細める。涙が一筋零れた。それを唇で反射的に掬ってしまった。

「勝己くん、のびのびってもう一回言って」
「はァ!?」
「何か可愛かった」
「もう二度と言うことはねえ」

 泣き腫らした瞳を細め、掠れた声で名前は笑い、呟いた。

「明日は仏滅だから、籍はとりあえず保留ね」

 どこまでも現実的な女である。
(180210)