深く息を吸い、吐く。こんなにもドアを開けることを躊躇する日が来るとは思わなかった。ノックを数回した後、わたしは二時間前に何度も練習した作り笑いを携え、ドアを開ける。

「こんにちは」
「………あ゛?」

 誰かお見舞いに来ているかと思いきや、そうでもないらしい。平日の朝だからだろうか。まだ、彼が病院へ運ばれたという事実は彼の周りの人たちには知らされていないのだろうか。考えてもわからないことだ。ヒーローには守秘義務がある。いくらそのうち家族になるという関係だったとしても、わたしには知らされないことの方が多い。

「てめーは、昨日の」
「今日も来ちゃった」
「誰だ」
「誰だと思う?」

 練習の成果は、出ているだろうか。わたしは普通に笑えているだろうか。何てことはないと相手に思わせるような素振りは、他人よりはうまいはずだ。わたしは個性の話になると、一貫してその素振りをする。一々ショックを受けていると相手に悟られてはいけない。無個性がコンプレックスだと、相手に悟られるわけにはいかないのだ。

 彼は目を細める。わたしを値踏みしているのか、それとも睨んでいるのか。このような視線を向けられたのは初めてかもしれない。そう思うと緩んでしまう涙腺を引き締めるように、わたしは呟く。

「わたしのことはいいから、昨日何が起こったのかが知りたい」
「はァ?得体の知れねえ女に話せるかよ」
「いいから」
「よくねーよ」

 この視線は睨んでいるのだろう。睨まれても怖くはないが、いい気分ではない。視線を逸らさずにじっと彼の瞳を見つめると、彼は瞳孔を開く。何かに気付いたような顔にも見えるが、そんな期待はするだけ無駄だろう。期待をするから落胆するのだ。彼は二度とわたしを思い出さない。視線を逸らさない女が珍しいのだろう。わたしは追い打ちをかけるようにつぶやく。

「一般人にやられたって?」
「やられてねーよふざけんな!」
「だってそのまま病院へ運ばれたって」
「わけわかんねー個性使われたンだよ!それだけだ!」
「それで気を失ったと」 

 勝己くんはわたしの言葉に押し黙る。図星らしい。不本意ながらも得体の知れない女に口を滑らせて、彼は酷く苛立っているように見えた。もう一度彼は、わたしを睨む。

「てめーは俺の何なんだ」
「………何だと思う?」

 わたしの声は、やけに病室内に響いた。寂しげに響いたそれに、彼は勘付いてしまったのかもしれない。彼が何か言おうとした、その時だった。

「そろそろ診察の時間なので、席を外してもらっても?」
「あ、はい、すみません」
「っせーな今この女と」
「爆豪さん、我儘は困りますから」

 この様子だと、彼は相当手のかかる患者だろう。看護師の皆さんも主治医の先生も大変だ。そう思いながら先生に頭を下げて病室を出ようとすると、その先生はわたしを引き留めた。

「あの、ご家族の方?」
「………まあ、その、何というか」
「少しだけお話が」
「………わたしでいいんですか?」
「彼に作用した個性の話です。あなた以外にはいない」

 この人が、切島くんが話していた美人な主治医なのだろう。わたしは頷き、病室から出た。

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「単刀直入に話します。彼の記憶の修復は限りなく難しい」
「………そうなんですね」

 切島くんたちから聞いた個性の見解は、正しいものであったらしい。専門家にばっさりと切り捨てられると、いくら期待をしていなくとも落胆してしまう。

「記憶は繋がっていますが、あなたの部分だけがごっそりと消えていると考えていいでしょう。検査の結果も、異常は見当たらない」
「……」
「あなたに関する記憶がないこと以外は、彼は至って正常です。退院まで時間はかからないでしょう」

 先生は淡々と説明を続ける。

「ちなみに――、あなたの個性を聞いても?」
「え?」

 わたしは思わず顔を上げる。わたしの個性?なぜだ。

「あなたの個性が、今の彼に何か悪影響を及ぼすものであるといけませんから」
「………わたしには、個性がありません」
「そうですか」

 お医者様に問われてごまかせるはずもなく、さらりと呟くとさらりと流された。――はずだった。

「自覚症状がないだけでは?きちんと調べられましたか?」
「……え?」
「世の中には自分を無個性だと思い込んでいる人も大勢います」
「………わたしの」

 声が震えてしまうかと思った。だけれど、そんなことはない。むしろ逆だった。

「わたしの小指には、関節が二つあります」

 落ち着き払ったわたしの声色は、診察室に響いた。医学的根拠を示すと、先生は押し黙る。

「そうですか」

 その声は、やけに冷たく響いた、気がした。

 好きで無個性に生まれたわけではない。好きで小指に関節が二つあるわけではない。好きで無個性ばかりを狙う敵に、襲われたわけではない。

 助けてくれてうれしかった。個性がなくても、どうでもいいと言ってくれてうれしかった。わたしを自分のものだと言って、守ってくれてうれしかった。隣においてくれて、うれしかった。だけどそのひとはいない。もうどこにもいないのだ。

 わたしの所為で、勝己くんは襲われた。ジギタリスの被害者の家族に。わたしだけが助かったから、襲われたのだ。わたしが無個性だから。

 病室に寄ろうかと思った。だけれど、どうしてもだめだった。無個性のわたしを、許容してくれる彼は、そこにはいない。どこにもいないのだ。

 視界が滲む。だめだ。こんなところで泣いてはいけない。誰もいないところで泣かないといけない。

 わたしは無個性だ。人口の約二割の少数派。八割が授かったものを授からなかった。

 泣いてはいけない。歯を食いしばる。口角を上げる。笑っていないといけない。わたしは無個性だ。婚約者を失った。ここで泣いたら、わたしはかわいそうなわたしになってしまう。

(180205)