「しーんぱーいないからねー!君の勇気がー!」

 深夜にまさかカラオケボックスへ行くことになるとは。名字名前は笑えばいいのか悲しめばいいのかわからず、目の前で力強い歌声を響かせるプロヒーローに目をやる。

「お前は何を歌うんだ」
「……轟くんは?」
「俺はこれがいい」
「津軽海峡冬景色……」

 渋いチョイスであると名字名前は思った。

「しーんーじーるーこーとーさー!必ず最後に愛は勝つ!!!!」

 派手なパフォーマンスであった。彼女が拍手をすると切島は照れたように笑い、名字名前の肩を叩いた。

「愛は勝つって!だから爆豪も大丈夫だろ!」
「………うん……」

 爆豪勝己の目が覚めたとほぼ同時に、彼を襲った人物の個性が判明した。「触れた人間の一番大切な人間を忘れさせる個性」その事実を知った瞬間、名字名前は頭を抱えた。比喩ではない。泣き出しそうであったが、泣きたくなかった。初対面の女に対して横暴な振る舞いをする爆豪勝己に、弱みを見せたくないと思ってしまったのだ。泣くのを堪えたところで、彼の目覚めを知った主治医が顔を出した。

「今から検査をするので、申し訳ありませんがお帰りください」

 深夜である。その言葉に頷き、三人で連れ立って病室を出た。出た瞬間に泣くかと思ったが、名字名前は案外気丈な女であった。爆豪勝己の友人二人の前で嗚咽して泣くのもどうかと思ったし、歩けないと思ったが足を動かさねば帰れない。そもそも爆豪勝己が自分のことを二度と思い出さないという事実を、まだ受け入れられないというのが現状であった。混乱している友人の婚約者を見て、切島はとりあえず呟いた。「とりあえず景気づけにカラオケ行こうぜ!」とりあえずも景気づけも意味がわからないと轟は思ったが、空気を読んで黙ったのであった。

「津軽海峡冬景色!?お前もっとなんかさあ!明るい曲歌えよ!何のために来たんだよ!」
「歌うために来たんだろカラオケなんだから」
「ちげーよ!!名前ちゃんを!励ますために!」
「マイクのスイッチ切ってくれキンキン煩い」
「あっすまん」

 切島と轟が騒いでいるのを耳にしながら、名字名前は瞳を伏せる。まもなく夜が明ける。明日は平日だ。仕事はどうしよう。勝己くんは。勝己くんは、もう、わたしのことを――、

「………わたしドリンクバー取ってくる」
「おう!」
「じゃあ俺はさゆりを」
「だから石川さゆりはやめろって!きよしにしようぜ!ズンドコ節!」
「さゆりがいい」

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 グラスを氷でいっぱいにし、ウーロン茶を注ぎ入れる。そのまま一気飲みしたあと、名字名前はしゃがみこんだ。

 勝己くんが無事でよかった。わたしのことを忘れたとしても、彼は無事だ。よかった。何よりだ。きっと検査を受け、他に何も後遺症などがないとわかれば、彼は日常に戻れるんだろう。よかった。目を覚ましただけでもよかった。病室で眠る彼を見た時は、もう目が覚めないんじゃないかと心配でたまらなかった。よかった。これでよかったんだ。――だけど、わたしの気持ちは?

 名字名前は小さく嗚咽する。婚約者が無事でよかった。心からその事実が喜ばしいはずなのに、浅ましくも自分のことを考えてしまう自分が嫌だと思った。わたしの気持ちなんて、どうでもいいことだ。勝己くんが無事なら、それでいい。

 明日は――、今日は、どうしようと名字名前は思った。病室に顔を出さねばならない。だけれど、きっとまた初対面の女として扱われるのだろう。婚約者の名字名前ではない。見知らぬ無個性モブである。名字名前は自嘲する。無個性モブ。その通りである。

 もう一度、爆豪勝己と最初からやり直せるのだろうか。それを彼は望んでいるのだろうか。わたしは、望んでいるのだろうか。わからないと思ってしまった。

 わたしはあなたが好きだ。だけど、あなたはわたしを好きじゃない。

 名字名前はもう一度嗚咽したあと、立ち上がりグラスを氷でいっぱいにし、ウーロン茶を注ぎ入れた。

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「思ったんだけどよ」
「うん」
「爆豪、名前ちゃんにベタ惚れだったし、もう一回やり直せるって!」
「どうかなあ」
「一度結婚したいと思った女は何回だって結婚したいって!なあ轟!」
「俺はそういうのよくわかんねえ」
「オイ!!」
「………すっごく最低なこと言ってもいい?」
「どうぞ」

「結婚が決まってた人に忘れられて、もう一度最初からやり直すエネルギーがないかもしれない」

「………」

 名字名前の絶望的な言葉に、男二人は絶句した。名字名前は続ける。

「勝己くんは丸くなったよ。学生時代よりずっと。何だかんだ付き合いも10年くらいになるし。だけど」

「また10年かけて、距離を埋めていくのは難しいかもしれない」
「確かに爆豪も人格破綻してるきらいがある」
「オイ!轟頼むから空気読んでくれ!」
「空気は吸うものだろ」
「読んで!頼むから!」

 空気を読まないプロヒーローの言葉に、名字名前は微笑む。そして呟いた。

「二人とも遅くまでありがとう。とりあえず今後のことはまだわからないけど、もしも勝己くんと他人になったとしてもまたカラオケ行こうね」
「そ、そんな弱気なこと言うなよ!愛は勝つだろ!?」
「今度は天城越えが歌いてえな」
「お前マジでさゆり好きなんだな」

 轟は切島の言葉に満足げに頷く。名字名前はタクシーに乗り込み、プロヒーロー二人に手を振る。タクシーが見えなくなったところで、切島はため息を吐いた。

「どう思う」
「何が?」
「あの二人」
「恋愛は当事者の問題だろ。外野が口を出さない方がいい」
「だけどこのままだと名前ちゃんが可哀そうだろ!」
「そう思われたくねえんだろうな」
「え?」
「泣かなかっただろ。弱音だって殆ど吐かなかった。同情されたくねえんじゃねえかな」
「………」
「爆豪の彼女って、確か無個性だったよな。これ以上同情されたくねえんだろ。俺も個性のことで拗らせてたしわからなくもない。と思う」
「お前ってたまに核心つくよな」

「だけど俺は勝ってほしいんだよなー」
「何に?」
「愛に決まってんだろ!」

(180205)