今日はなんだか気分がいい。先ほど化粧室で、恋活リップだと名高い新しい口紅を塗ったからだろうか。最近は大ファンである爆豪勝己くんが地方に出張に行っているから何に対してもやる気は全く起きなかったのだが、今日は珍しく気分がいい。今なら何でもできる気がする。こんな気持ちは初めてだ。

 足早に会社のエントランスを抜ける。初めて来たはずなのに、何度も来たことがあるような気がする。あたしは嬉々として呟く。

「すみません。名字名前さんにお会いしたいのですが」
「名字ですか?」
「はい。お約束はしていないのですが……」

 好きな人のことは何でも知りたい。それが、好きな人の好きな人のことでも。自分の敵だとしても。彼女のことまでも調べていてよかったと安堵しながら、あたしは彼女がエントランスに到着するのを待つ。

「お待たせしました……?」

 名字名前は、あたしを見て不思議そうな顔をしている。男受けを狙ったようなその表情に普段なら苛立つが、高揚しているからか全く苛立たない。あたしは呟く。

「初めまして。少しお時間いいですか?」

 伊達にマスコミ関係で働いていない。自分の外面の良さには自信がある。あたしはこうして、殺したいほど憎い相手との接触に成功したのだった。

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「終った?」
「………はい」

 人気のない路地裏で、名字名前はおずおずとスマホから耳を離す。ナイフを突きつけているあたしを見て、怯えたように身を縮めている。“命が惜しければ、爆豪勝己に別れを告げろ”いきなりナイフを突きつけられ、無理難題を言われたにしては、名字名前は落ち着いているように見えた。怯えてはいるが、パニックにはなっていない。おかげでやりやすかった。大声を出されたら、口を塞がなければならない。

「これからもう二度と、爆豪勝己くんの前に姿を現さないでね。そうじゃないと、あたし、あなたに何するかわからないから」
「………っ、」

 びくりと名字名前は肩を揺らす。

「もしかしたら爆豪勝己くんにも何かしちゃうかも。だから約束してね。あたしを犯罪者にさせないでね」

 名字名前は首を揺らす。そしてあたしは呟いた。

「ちゃんと約束するなら解放してあげる。爆豪勝己くんが帰ってくるのは明日だもんね。今日のうちに荷物をまとめて、この街からもいなくなるっていうのなら」

 名字名前は目を見開く。そして呟いた。

「し、しごとは」
「あんた死にたいの?」
「ご、ごめんなさい!」

 命よりも仕事の心配をするとは、この女は馬鹿にしているのだろうか。苛立ち自分の首にナイフを突きつけたあたしを見て、名字名前は謝罪をした。

「あんたが無個性じゃなかったら、許せたのかなあ?」
「………っ」
「だってあんなにすごい人の彼女が、無個性だよ?許せないよねえ」
「………」

 名字名前は目を強く瞑った。あたしはその様子を見て鼻で笑う。

「まあだけど、無個性でも個性があっても―――――」

 ガツンと、大きな音が響く。一瞬だった。その瞬間からの記憶が、あたしには、ない。

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「………大丈夫?」
「………っ、え、なんで、」
「ヒーローだからね、これでも。失礼なところは相変わらずだね、名字名前さん」
「………ごめんなさい」
「謝罪はいいよ。怪我は?」
「だいじょうぶ、」
「………僕のこと覚えてる?」
「‥………物間くんでしょ。わたしは一回話したことある人の顔は忘れないから」
「凡庸な特技だね」
「………ありがとう、物間くん」

(170813)