「おかえりー」 「………」 「ただいまは?」 「………ただいま」 「ごはんできてるよ。お風呂も沸いてるよ」 「見ればわかるわ!!!」 泡だらけの浴槽に沈む女は楽しそうに笑いながら呟く。 「いきなり入ってくるからびっくりした。わたし、お風呂入ってるんだけど」 「見ればわかるわ!!つーかこんな時間に風呂入ってんじゃねーよ!」 「ソファで寝てたらこんな時間だよ」 日付が変わるような時刻だ。普段はこの女は俺の帰りを待たずに眠っているか、リビングでテレビを見ているかである。リビングにも寝室にもいないので、家中の扉を開けまくった結果がこれである。 「家出したかと思った?」 「………っせーな」 名前は水面から泡を掬い、息を吹き俺に泡を飛ばす。泡に浮かぶ鎖骨の形を見つめる。家出ならまだいい。この女の意志が伴っているのならば。先日クレイジーサイコ敵に襲われかけているこの女が、自分の意志を伴わずにこの家から姿を消した可能性に俺は少なからず焦ったのだ。 「お腹すいた?」 「当たり前だろ時間考えろ」 「そっかー」 「何が言いたいンだよお前は」 「先にお風呂入る?」 名前は俺に向かって手を伸ばす。泡だらけの細い手首に、噛みつきたくなる衝動を覚える。 「………っんっ、」 手首を引っ掴み、唇を合わせる。数秒押し当てると、目の前の女は焦ったようにつぶやいた。 「シャツ、濡れちゃうよ」 「別にいい」 「だめ、それ高いやつでしょ」 「所帯じみたこと言ってんじゃねーよ」 ポロシャツが濡れることを気にして身体を離す目の前の女を、関係ないとでもいうかのように強く抱く。胸元のワニが、しっとりと濡れていく。 「勝己くん」 至近距離で視線が交わる。俺とこの女を隔てる浴槽が、邪魔で仕方がない。衣服を脱ぎ捨てていくと、名前は怪訝そうに目を細める。 「わたし洗わないからね」 「あ?」 「自分で洗って。雑な脱ぎ方するし。ラコステのポロは濡れちゃうし。わたしこれ可愛くて好きなのに」 むっとしたような表情の女を黙らせるように浴槽へ沈む。俺の体積で水が溢れた。目の前の名前の泡だらけの肩甲骨を眺めると、視線に気づいたのか不機嫌そうな目を向けられた。 「何見てんの」 「別に見てねーわ」 「絶対見てた」 「自意識過剰かよ」 名前は脚を伸ばす。首筋に顔を埋めると、名前は擽ったそうに身を捩る。 「今日のお仕事は大変だった?」 「別に普通」 「そっか。何より。わたしは今日の仕事は大変だったよ」 「そうかよ」 「だけど明日は休みだから嬉しい。今日は夜更かししようと思ってる」 「そうかよ」 「勝己くんは明日早い?」 「普通」 「そっか」 俺のやる気のない相槌に、この女が怒ることはない。ぺらぺらとよく動く口を黙らせるように唇を重ねる。くぐもった声が、浴室に響く。 「ん………っ、ま、待って、ちょっと」 「待つわけねーだろ」 「ご、ごはんは!?お腹空いてないの!?」 「後だ後」 「ま、待って、あ……っ!?」 胸に手を這わすと、名前は焦ったような声をあげる。この女の声に、体温に、香りに、質量に、酷く自分の中の何かが充たされる感覚がする。 「‥………最近変わったことはねーだろうな」 「変わったこと?………うーん特には」 今日の仕事の現場で、俺のフォロワーを自称するクレイジーサイコモブに言われた言葉を反芻する。あのモブは名前のことも調べているようであった。打開策を考えなければならない。俺はともかく、名字名前に何かがあったら対処しようがない。四六時中傍にいられるわけではないのだ。 「………わたしが自分の身を守れたらって思うけどまあそんなことは無理だから勝己くんちゃんと守ってね」 「………あ?」 「ちなみにGPSってどこについてるの?」 「………」 「わたしの予想はティファニーの指輪。これ」 正解である。この女にいつだかやったものである。中指に好んでつけているゴールドのそれを、この女は風呂の時も眠る時も外さない。いかなる時も絶対に外すなとくぎを刺した結果である。 「傷つけると嫌だから大事な時しかつけないって言ったらすごく怒られたから。だめになったら新しいの買ってくれるって言ってたし。これかなって」 「………」 「ちなみに結婚指輪を買ったらそっちにしてね。そっちに移し替えようね」 「………」 煩い唇をふさぐと、名前は微笑んだ。首に手が回る。俺は予てから思っていたことを呟く。 「つーか仕事辞めたら、うちの事務所で事務やれ事務」 「えー絶対やだ」 「はァ!?」 「そういうのは奥さんは出しゃばらない方がいいんだよ。たぶん」 「お前が働けば人件費浮くだろーが!」 「やだやだ。それなら他所で働く」 「はァ!?」 「この話は終わり」 「終ってねーよ!!」 「まあまあそれよりも」 強引に話を切られ、自分の眉間に皺が寄る。名前は俺の表情を見た後、リップ音を立てて唇に吸い付いた。そして甘ったるい声で呟く。 「………もうキスしてくれないの?」 この女の言いなりになるのは癪だ。手玉に取られているようで腹立たしい。それでも、喉を鳴らして噛みついてしまうのは、空腹だからに違いないのだ。この女の言いなりになっているわけではない。断じて。 (170726) ×
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