「最近浮いた話はないのかい?オジサンに聞かせてくれよ」

 目の前の若い女子――女子という単語を彼女に使うのは憚られる。紛れもない“女子高生”であるが、ボーダーのニット素材のワンピースを着た彼女は、年相応には見えない。

「オジサンって。八木さん面白いですね」

 さらりと私の戯言を流し、名字名前はブルーチーズのパンケーキにナイフを入れる。ゴルゴンゾーラやロックフォールなど、彼女は割と癖のあるチーズを好む。

「彼氏ができました、そういえば」
「何だってー!?それはおめでとう!」
「ありがとうございます」
「私の知ってる子かい?」
「そうですね」
「当てようか」
「当たらないと思いますよ」

 名字名前はさらりと呟く。蜂蜜のプールに沈むパンケーキを見つめていると、彼女は私に皿を差し出す。

「食べます?美味しいですよ」
「ブルーチーズは癖があっていいよね。ワインが飲みたくなりそうだ」
「飲めばいいじゃないですか」
「いや私お酒飲めないんだよね。車だし」
「それもそうか」

 差し出されたパンケーキを口にする。ブルーチーズ独特の塩気が、蜂蜜の甘さと上手く絡んでいる。美味いと思った。

「緑谷少年」
「根拠は?」
「彼は君のコンプレックスを気に留めないだろう。君が思っている以上に君を理解してくれるはずだ」
「はずれですよ」

 彼もかつては目の前の少女と同じだったのだ。よき理解者になるだろうと思ったが、はずれのようだ。

「じゃあ飯田少年」
「どうして?」
「彼も同じ理由だよ。君自身を見てくれるだろう」
「はずれですよ」

 名字名前は瞳を伏せる。そして呟いた。

「わたしは同情してほしいわけじゃないんです。優しくされたいわけじゃない。理解してほしいわけじゃない。だって誰も、わたしの心なんてわからないから」

 君の心がわからなくもない、そう言おうかと思った。だが言えるはずがない。私は彼女の気持ちがわからない。私は個性を、一時的にでも“授かった”人間だからだ。個性が自身から消失したとしても、その事実は変わらない。一度でもそれを持ち得た人間には、一度も持ち得ない人間の心が、わかるはずがないのだ。

「見当がつかないな」
「爆豪くんですよ」
「………えっ?」
「八木さんめっちゃ素で驚いてますね」
「えっ爆豪少年?マジで?」
「マジって」

 彼女は面白そうに笑う。爆豪少年。正解は思いもよらない人物だった。私は自分の目が丸くなっている自覚があるくらいには、驚いている。

「意外でしょ。爆豪くん」
「いや爆豪少年が君を選ぶという点はわかるが、君が爆豪少年を選ぶというところが……」
「え?」
「え?」

 名字名前は目を瞬かせる。そして呟いた。

「わたしが爆豪くんに選ばれたのが不思議じゃないですか?」
「………え?なんで?」
「だってわたし、無個性だし」
「いやそこは大した問題ではない。君だって、爆豪少年の個性に惹かれたわけじゃないだろう?」
「そうですね。確かに爆豪くんの個性はどうでもいい」
「そこだよ」
「え?」

 個性を持たない彼女は、個性の種類については全く頓着しない。頓着するのはそれの有無だけだ。個性の有無は注視すれども、名字名前は個性の種に対する偏見を持たない。自分が個性を有していないからだろう。誰しも、自分と似た個性に親近感が沸き、自分と相性の悪い個性に対しては苦手意識を覚える。だが彼女にはそれがない。

 爆豪少年の個性は強烈だ。強く、眩しく、稀に敵向きだと言われるほどに鮮やかだ。それに対して彼女は何の偏見も持たない。爆豪少年の個性が何であっても、名字名前にとっては大した問題ではない。自尊心が酷く強い爆豪少年が、本能的に名字名前のそういったところに惹かれるというのは大いに頷ける。どんな自分であっても受け入れるという彼女の特性は、プライドの塊である爆豪少年にはたまらなく魅力的に映るだろう。

「それよりも、馴れ初めから教えてくれないか。オジサンははにかみたい気分なんだ」
「はにかむって」

 名字名前はパンケーキを口にした後、呟いた。

「体育祭の前日に、わたしのために勝ってねって言ったんです。それがきっかけかな。その時に初めて話して」
「君は中々に積極的だね」

 私はノンカフェインコーヒーを口にする。名字名前は微笑む。

「他意はありませんよ。わたしは本当に爆豪くんが一位になるって思ってたし、わたしの予想は当たった。当然だと思いましたけど」
「けど?」
「体育祭の直後に、おめでとうって言いに行ったんです。その時にあまりにも不本意そうだったから」
「ああ、爆豪少年は暴れまくりだったね」
「爆豪くんが勝つに決まってたっていう意味合いのことを言ったんです。それから目が合ったら話すようになって」
「………」

 思わず私は顔を手で覆う。甘酸っぱい。全力ではにかんでしまった。

「どうしました?」
「いや……いいね青春……」

 完全に爆豪少年が彼女を選んだ理由がわかってしまった。緑谷少年や轟少年や、自分以外の人間に並々ならぬ敵対心を抱いている彼だ。体育祭直後は特にそれが顕著だった。一位になり注目を集めたと言えど、彼が敵対心を持つ相手は自分を見ていなかった。戦闘中に炎を消した轟少年がいい例だ。納得のいかない結果に燻っていた時に、自分よりも自分の勝利を確信し、自分だけを見ていた存在が現れたとしたら。それが異性だったとしたら。名字名前だったとしたら。

「君は爆豪少年のどこに惹かれたの?」
「………」

 彼女はナイフとフォークを揃える。空になった皿は、蜂蜜で光っている。

「どうでもいいって、言ってくれたんです」
「どうでもいい?」
「わたしの個性なんて、あってもなくても、どうでもいいって。わたしはわたしだって。それがたまらなく嬉しかった」
「………、」
「わたしは単純な女ですよね。だからそのうち捨てられそうだなって思う」
「それはないと思うよ」
「いつか」

 名字名前は空になった皿を見つめる。

「いつか、きちんと、彼の手を離してあげないとって、思います」
「?」
「爆豪くんには、もっといい人がいるから。もっときれいで、可愛くて、性格もよくて、尽くしてくれる、きちんとした個性を持ってる子が」
「………それは爆豪少年には言わない方がいい」
「言いませんよ」

「いつか手を離すときが来るまで」

 何か、言おうかと思った。だが、言えなかった。その時の名字名前の表情が、酷く、悲しいほどに美しかったからだ。覚悟を決めた女性は、酷く美しい。私は口を開く。

「その日が来ないことを私は祈るよ」
「祈っても来るからな」
「それなら、その日まで君と友人でいることを望むよ」
「美味しいものを食べる友達じゃないですか、わたしたち」
「それもそうだね」

 オールマイトの正体は、世間の誰もが知っている。もう、この少女に拠って秘密が露にされる心配はない。だが、それでも彼女と食事をとるのは、彼女が私をただの人として、一人の人間として見てくれるからだ。個性を持たぬ彼女にとって、個性の種類など意味はない。たとえそれが、受け継がれていく誰にも他言してはならぬ個性だとしても。その個性を失ったとしても。彼女にとって、私は「八木さん」なのだ。

「しかし君が私の正体を見抜いた時は驚いたよ」
「分かるに決まってますよ。多少姿かたちは違えど、キートンのスーツ着てたし。香水も同じだし。逆に何で他の人は誰もわからないんですか」

 私は君のこういうところに惹かれているのだ。だから、君と食事が摂りたいんだ。口にするには些か業が深すぎるそのセリフを、私が彼女に伝える日は来ない。彼女の嫉妬深い恋人が、きっと暴れてしまうからだ。

(170703)