無個性ばかりを狙う敵に、飯田天哉は酷く腹を立てていた。とても酷く。学生時代から正義感の塊だと比喩される飯田天哉は、プロヒーローになった今でも相も変わらず正義感の塊であった。更にはその敵は彼の人生に爪痕を残した、「ヒーロー殺し」を多少意識しているように見受けられる。それが更に敵への憎悪を膨らませた。とっくにトラウマは克服しているが、克服したからといって完全に吹っ切れているわけではない。人間はそう簡単に、過去を過去だと割り切れない生き物だ。

 酷く気がかりなのは、無個性である幼馴染であった。飯田天哉の世代では、“無個性”という存在は酷く珍しい。クラスに一人、学年に一人いるかいないかの確率である。彼の身近な存在で唯一の無個性であるその幼馴染は、学生時代から飯田天哉の信頼してるヒーローと交際を続けている。幼馴染を気に掛けるメッセージを送ると、そのヒーローに保護されているようであった。彼の元なら安心だ。爆豪くんは気性は荒いが、きちんと名前ちゃんを守ってくれる。そう思ったが、彼女からの返信は、近況報告は、徐々に覇気のないものへと変わっていく。

 飯田天哉は女性の気持ちがわからない。まじめすぎるのだ。当たり前のように、名字名前の気持ちもわからない。だが、この時ばかりは何とかしなければならないと思ってしまった。大切な、ただ一人の幼馴染なのだ。気晴らしにと、飯田天哉は父親の誕生日パーティに彼女とその恋人を誘った。「恋人は仕事で来られないが、自分は送迎付きなら許可を貰えた」そう喜んだ幼馴染からのメッセージを見て、飯田天哉はほっと胸を撫で下ろす。

 これが彼女にとっての気晴らしになればいい。飯田天哉は心の底からそう思った。そう願った。だから、彼女を誘ったという行動が、良かれと思って行った行為が、最悪の事態を招くとは、思いもよらなかったのだ。

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「動いたらこの無個性を殺そう」

 道化師の被り物をした男は、名字名前に銃を突き付けている。とあるヒーローの誕生日パーティは、一瞬にして緊迫した空気に変わった。参加者は勿論プロヒーローばかりであったが、無個性の一般人を人質に取られては動くこともままならない。

「お前がジギタリスか!?」

 誰かが呟く。口を動かすことすら、道化師は許さないようであった。背後の窓ガラスに向け、道化師は2、3度発砲した。窓ガラスは酷く歪な形に割れ、ここが高層階であることを示唆するかのような強い風が会場へ入ってくる。

「私がジギタリスだ。ここで無個性狩りを行うつもりはなかった。だが、見つけたらつい使命感に駆られてしまう」

 ヒーローばかりが集まるこの場所で、犯行に及ぶとは浅はかな。そう飯田天哉は思った。同時に一瞬でも名字名前の隣から離れたことを酷く後悔した。一瞬だ。自分が一瞬離れた隙に、名字名前は敵に捕まり、恐怖で身を縮めている。

「君たちの考えていることはわかるよ。自分たちが動いても動かなくとも、どうせこの無個性は殺される。それならば、動いて私を捕獲しよう。一人の一般人が犠牲になるが、仕方がない。私を野放しにしておく方が、被害は増えていくのだから」

 道化師は饒舌に話す。

「だけれどその思想こそが、私は悪だと思う。君たちは個性の有無で人間に優劣をつける私を異端だと、敵だと決めつけている。だが君たちだって同じではないか?この無個性の命を犠牲にして、他の無個性の命を守る。君たちの理論に則るのならば、命に優劣はないのだろう?犠牲は仕方がない?多くの人間を守る?どれも詭弁だ」

 道化師の言葉には、不思議と説得力があった。その証拠に、“彼女を犠牲にして敵を捕まえよう”としたヒーローの一人は、動きを止めた。ここで動いては、ここで無個性の人質を見捨てては、敵の思想を肯定することになってしまう。

「彼女を離してくれ」

 飯田天哉は、懇願するような声色を発した。その言葉を聞き、道化師は愉快そうに呟く。

「君はこの無個性の恋人か?美しい女性だ。狩るのが惜しいくらいにね」

 道化師は銃を向けたまま、名字名前に顔を近づける。名字名前は怯えたように身を縮める。助けを求める声も出せないほどに怯えきっている幼馴染を見て、飯田天哉は背中に汗が伝うのを感じた。

 ――焦るな、冷静になれ。敵が逃げるとすれば、割られた窓か、扉からしかない。だが扉には十分な距離がある。発砲して逃げ道を作ったのだと仮定すると、窓から逃げる方が確率は高いだろう。逃げてどうする?宙に浮く個性か?ここは上層階だ。この敵は無個性を狙っているのだから、この場をやり過ごしたら彼女に危害を与えるだろう。それはいつだ?逃げた瞬間か?最悪の事態は、彼女が被害に遭い且つ敵が逃走することだ。最悪の事態を免れるにはどうすればいい?飯田天哉は逸る気持ちを抑え、努めて冷静に考える。その瞬間だった。窓の外に、見知った炎を認めたのは。

「彼女を離せ!悪名高い敵め!」
「………」
「尤もらしい理論を振りかざしているが、ただの犯罪だ。詭弁を並べるな」

 飯田天哉の言葉に、道化師は動きを止める。挑発するようなその言葉に、道化師は静かに逆上した。

「望み通り離してやろう」
「………え?っ、!」

 道化師は名字名前の腕を引き、窓の外へと突き落とす。それとほぼ同時に、道化師は窓の外へと身を投げた。

「レシプロ!バースト!!」

 父親の誕生日パーティの為に新調したポールスミスのスーツが、自分の個性によって焼き切れてしまっても構わないと飯田天哉は思った。彼女はきっと彼が助ける。きっとではない。必ず助けるだろう。そういう男だ。飯田天哉は同期の気性の荒い男を信頼している。彼女のことは彼に任せ、自分は敵を捕まえねばならない。無理やり回転数を上げ、窓の外に身を投げた道化師を捕獲する。飯田天哉はそこで、違和感に気が付いた。

「………死ぬつもりだったのか?」
「………」
「個性で逃げる算段ではないのか?」
「私の個性は他人の個性の可視化だ。空は飛べない」

 道化師を引き倒し、身動きが取れぬようマウントを取った後、飯田天哉は静かに呟く。逃げる算段があるから、高層階から飛び降りたのだと思った。だが、道化師はただ、重力に身を任せているだけであった。自分が飛び出さなかったら、きっと命を落としていただろう。

「………今日のサイエンス誌を見たか?」
「‥……は?」

 抵抗もしないその敵は、先ほどとは打って変わり、絶望しきった声で世界的に権威がある学術雑誌を読んだかどうかを飯田天哉に問う。

「私の尊敬する研究家の論文が載っていた。“個性は受け継がれる。親から子に。発現する個性は、遺伝に拠る”」

 消え入りそうな声で、道化師は呟く。

「“しかし、個性の有無に関しては遺伝的要素は殆どない。可能性は限りなくゼロに近い”」
「………」
「個性の有無は遺伝しない?それならば、私の行為は無駄だったのか?私は、何の為に25人もの命を奪った?」

 犯罪者は呟く。

「無個性を根絶するために。人類により良い進化を齎すために、私は――、」

 サイレンの音が鳴る。漸く警察が到着したようであった。

 無個性狩り、ジギタリス。正体は人類学者であった。自分の行動こそが正義だと自分自身の正義に妄信しきっていたその敵は、自分の正義が科学的に根底から覆されたことにより、計画的な犯行を辞めて自棄になった。最後に目についた無個性を狩り、自分も死ぬつもりだった。そう供述したその敵のことを、世間はすぐに忘れていく。

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「っ、ぶねえな」
「………っ、は‥……っ、」

 名字名前は、窓の外へと突き落とされた瞬間に死を覚悟した。本当の恐怖に襲われたときは、人は悲鳴もあげられないらしい。意識が遠ざかる瞬間に、見知った体温に包まれていた。

 爆豪勝己は恋人を抱き上げたまま、近くのビルへ降り立つ。そして動転している恋人に、努めて優しく声を掛けた。

「………怪我は」
「………っ」

 名字名前は呼吸を荒くし、目を見開いている。どうやら状況を判断できていないようであった。暫く深呼吸を続け、か細い声で呟く。

「わたし、死んだの……?」
「死んでねーよ!生きてるわ!」
「‥………死ぬかと思った………っ、」

 安堵したように、名字名前はプロヒーローの胸に頬を寄せる。そしてそのまま、自分を助けた恋人の目を見つめる。

「………ん……っ、」

 当然のように唇が重なる。名字名前は常々、洋画を見るたびに「どうしてこの人たちはピンチを乗り越えた後に深いキスをするのだろう。家で落ち着いてからにしろよ」と疑問に思っていたが、その気持ちが漸くわかった瞬間であった。命を救ってくれた恋人を目の前にし、自分が安全であるとひとまず理解できれば、そりゃあキスもしたくなるわと。盛り上がるわと。

「………撮られちゃうよ、」
「誰も見てねえだろ」
「…んっ、靴、失くしちゃった」
「また買ってやる」

 ヒーローコスチュームの恋人とキスをするのは初めてだと、名字名前はどうでもいいことを思った。一応マスコミのことを気にする素振りを見せたが、周りに人の気配も、ヘリの気配もない。プロヒーローは細かいことばかりを気にする恋人に、煩いとでもいうかのようにキスを続ける。まるで映画の様に、何度も何度も。

(170624)