「アリスは涙を何リットルも流したので、涙のプールができてしまいました」
「………あ?」
「不思議の国のアリスだよ」

 目の前の女は瞳を伏せたまま呟く。そして俺の目を見ることなく、呟いた。

「わたし、爆豪くんの隣にいられないのかもしれない」

 神野事件が解決した、数日後の出来事である。

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「こんにちは。爆豪くんの友人の、名字名前です」
「………勝己!!!!女の子が!!!女の子が見舞いに来てるわよ!!!」

 あの忌々しい事件から数日が経った。漸く警察やら学校関係者やらの来訪が落ち着いたと思ったその時に、その女は現れた。玄関で人当たりのよさそうな笑みを浮かべている目の前の女に、俺は思わず口を開く。

「………来るなら連絡しろよ!突然来てンじゃねーよ馬鹿!!!」
「あんた女の子に怒鳴ってんじゃないわよ!」
「うっせえババア!叩くんじゃねーよ!」
「これ、よかったら皆さんで召し上がってください」
「てめーも普通に手土産持ってきてんじゃねーよ!」
「折角持ってきてくれたのに失礼なこと言ってごめんねーしっかり叱っとくから」
「いえいえ、大丈夫です」
「だから叩くなっつってんだろ!!」

 テンポよく俺の頭を叩き続ける母親は、何やら目の前の女を見てにやにやと笑みを浮かべている。それがうざったくて仕方がないので、舌打ちをして部屋へ案内する。本当は家から出たいところであるが、警察から出歩くことを禁じられているのだ。不自由で仕方がない。

「久しぶりだね。大丈夫だった?」
「……見ればわかるだろ」

 名字名前は落ち着いた声で俺の安否を窺う。先日の事件で散々様々なモブ共に安否を確認されたが、その中でも目の前の女の声色はダントツで落ち着いている。俺が“大丈夫”であるという確信を得たうえで話しているようであった。

「分かりきったこと聞いてんじゃねーよ」
「ニュースで見たからね。無傷だってことは知ってた」
「………けっ、」

 俺の悪態に名字名前は微笑む。そしていきなり、わけのわからないことを呟いた。

「アリスは涙を何リットルも流したので、涙のプールができてしまいました」
「………あ?」

 ポエムか?頭がおかしくなったのか?俺の表情を見て頭の心配をしていることを悟ったのか、名字名前は薄く笑う。そして依然として瞳を伏せたまま、呟いた。

「不思議の国のアリスだよ」
「はあ?」
「わたしね、爆豪くんが合宿中に攫われたって聞いた時、何リットルも泣くのかなって思ったんだけど」
「単位がおかしいだろ」
「そんなに泣かなかった。不安だったし、怖かったし、心配したよ。もう会えないのかもしれないとも思ったし、爆豪くんに何かあったらどうしようって思った」
「………」

 名字名前は、瞳を伏せている。隣に座る俺の角度からは、どんな表情をしているかは窺えない。

「わたし、なんで無個性なんだろうって思った」
「………あ?」
「今までずっと、個性が欲しいなって思ってた。個性なら何でもよかった。だけど、あの時は違った」
「………」

 名前の声は、弱弱しく俺の部屋に響く。

「わたしには、なんでヒーロー科みたいな、強い個性がないのかなって思った。わたしは好きな男の子が攫われても、何もできないんだなって」
「………は、」
「助けに行ったヒーロー科の子たちみたいになれない。わたしはテレビの前で、あなたの安否を確かめることしかできない」

「ただ、自分の部屋のテレビの前で、眠れないほど不安になったり悲しくなったりすることしかできない」

 名前は俺の瞳を見ることなく、淡々と呟いた。

「だからわたし、爆豪くんの隣にいられないのかもしれない」

 頭に血が昇った。衝動的に爆破をしてしまったのかと思ったが、どうやらそんなことはないようであった。俺は相変わらず、衝動的にでもこの女の目の前では個性が使えないらしい。ベッドに沈む目の前の女は、上に乗りあげる俺の瞳を目を丸くして見上げている。どうやら心底驚いているらしい。

「………どういう意味だ」
「………長々と説明したけど」
「分かりづれーんだよ!!!!」
「ちょ‥……っ、この距離で怒鳴るのは」

 名字名前は心底うるさそうな表情をしている。知ったことかと思った。

「そもそも俺は助けられようなんて思っちゃいねーし、自力であれくらい何とかするわ!!」
「……プライドの塊だな」
「つーかお前が泣いたとか泣いてねえとかどうでもいいんだよ!ついでに個性の有無も今更だわ!何回同じやり取りさせれば気が済むんだよしつけーな!」
「ど、どうでもいいって……」
「それにお前が俺の隣にいるかいないかを決めてンじゃねーよ!お前は俺のモンだろーが!」
「えっ」
「あ?」
「わたしいつから爆豪くんのものになったの」

 名字名前は目を丸くしている。心底驚いているらしい。俺はその言葉に首をひねる。確かに、いつからと問われると微妙だ。

「‥………どうでもいいだろ」
「よくないでしょ」

 先ほどの弱弱しい声ではない。名字名前は怪訝そうな目で俺を見ている。

「………ンなことはどうでも」
「よくない」
「………」

 俺が押し倒しているというのにも関わらず、主導権はこの女に移りつつある。癪で仕方がないが、この女はきっと俺が明確な答えを出すまで動かない。厄介すぎる。

「………じゃあ今でいいだろ」
「え」
「そもそも不安になんてなってんじゃねーよ!俺が敵に負けるわけねーだろ!」
「………」
「ヒーローになっても同じだ。俺が勝つに決まってんだろ。だからお前が、そのことに対して何か思う必要はねえ」
「………うん」

 その声色は、酷く弱弱しく響いた。俺は思わず目の前の女の表情を確認する。泣きそうな表情をしていた。

「……ンで泣くんだよ」
「………ヒーローになっても隣に置いてくれるのかって思って」
「…………」
「冗談だよ。先のことはわからないもんね」

 相変わらず冷めた女である。名前は目を一度きつく瞑り、そして呟いた。

「これからは心配しないからね。わたしは爆豪くんなら大丈夫って、どーんと構えておくことにする」
「当然だろ」
「だからこれからも友達でいてね」
「………は?」
「だって好きだとか言われてないし。俺の物っていうのは、子分的な意味合いだよね?」

 名字名前は、押し倒されているというのにも関わらず余裕そうな笑みを浮かべている。俺はこの女を便宜上馬鹿だとよく罵るが、この女は馬鹿ではないし天然でもない。むしろ他人の感情に鋭い女だ。つまり、この女はわかっていて俺に尋ねている。

「………ンなわけねーだろ!話聞いてなかったのか爆破するぞ!!」
「聞いてたよ。これからもいい友達でいようね」
「はァ!?てめえ舐めた口聞いてっと、」
「うん」
「………」
「どうなるの?」

 名字名前は、楽しそうに笑っている。その瞬間、悟ってしまった。俺は、この女を、どうにもできないのかもしれないと。俺らしくないにも程がある。だが、押し倒しているとはいえ強引に何かをするつもりにもなれない。この女のこの表情を見ると、なぜか毒気を抜かれてしまうのだ。やっぱりこの女、何かそういう個性持ってるだろ。そう思いながら俺は仕方がないので呟く。

「………名前」
「うん」
「…………だ、」
「聞こえない」
「…………だから好きだっつってンだろ!お前みたいな面倒で厄介な女は、仕方ねーから面倒みてやるよ!」
「………面倒で厄介?」
「そこかよ!!」
「冗談だよ」

 名字名前は微笑む。そして俺の首に手を回し、呟いた。

「彼女にしてくれてありがとう」
「………別に」

 名前は目を瞬かせ、俺の目をじっと見つめている。吸い込まれそうだと思った。そのまま距離を詰めると、騒がしく部屋のドアが叩かれた。

「勝己!!!!あんた彼女にお茶も出さないで――、」
「バッバア入ってくるンじゃねーぞ!!」
「あっそろそろお暇します!長々とごめんなさい!」
「いいのいいの。もしよかったらリビングでお茶でもどう?パパにも紹介したいし」

 普段オヤジのことをパパなんて呼ばねーだろ。そう思いながら起き上がり、名前の手を引く。乱れた髪を整えてやると、名前は目を瞬かせて笑った。

「……ンだよ」
「彼氏みたいなことするなあって」
「………そうだろーが」
「そうだったね1分くらい前からね」

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