Notte 
残冬に満ちた部屋

まだ寒さを残しながら、しかし随分と温かくなった陽気。
春の訪れを祝福するかの如く咲き誇る花花を視界の端に捉え、蓮は僅かに凍える表情を緩めた。
窓から見える屋敷の庭はなんと賑やかな事だろう。
赤、白、黄色、紫、桃色、青、橙と、色鮮やかに美しく彩られているではないか。
其処にはなんの汚れもなければ、何の杞憂もなかった。
ただ穏やかな春の恩恵の中で無邪気に盛るその姿は、何処か眩しく彼女の目に映り、彼女は自嘲の笑みを胸中で浮かべる。
自分には似合わないと暗に告げるその嘲笑を、彼女は密かに噛み締め、足早にその場を後にした。






「遅かったね」



自分に与えられている執務室に戻れば、そこには既に先客がいた。
クスリと微笑を湛え、誰が淹れたのかティーカップを傾け優美に来賓用のソファーへと腰掛けている。
これが初めてでは無いにしろ、あたかもその部屋の主の様に迎える姿に意図せず眉を顰めた蓮は、「何の御用でしょう」と一切の感情を排した声で訊ねる。
それにクツクツと笑う男に眉間の皺を更に深めた。



「何だと思う?」

「私ごときが偉大なるボンゴレのお心を知る等、我が分を超えております」

「こんなにアプローチしてるのに?」

「なんの事でしょう?」

「本当に君は意地悪だね」



「愛しのジュリエット?」立ち上がり蓮に歩み寄った綱吉は蓮の一歩手前で立ち止まると、身を屈めて彼女の左耳へと唇を寄せる。
痴戯の様に触れ、甘い吐息と共に甘言を囁く。
耳元から脳に直接送り込まれるそれに、蓮は両の拳を強く握った。

(狐が…っ!)

屈辱だと、綱吉からでは見えない氷蒼が語る。
合わせて、胸中で吐いた毒が分かったかの様に、綱吉の笑みが深まった。



「どうすれば俺のジュリエットは分かってくれるのかな?」

「…お好きですね、その呼称」

「話を逸らさないで、って言いたいけど、…そうだね。
俺達にピッタリだと思わない?」

「お戯れを」

「遊びじゃないんだけどなぁー」



肩口でクスクスと笑われ、身体の内に響くそれに脳が犯される錯覚を味わう。
極めて不快だと、何故この男は私に構うのだと、綱吉に対する嫌悪は深まるばかり。
手慣れた女の扱いに、果たして何人を相手にしてきたか等、想像に難くない。
全くもって笑えない。
甘い口説き文句にも吐き気がする。
布越しに、時に直接伝わる他者の体温に嫌悪が湧く。
厄介な奴に目を付けられたものだと、決して表情には出さず蓮は内でのみ舌打った。
その直後、図った様に綱吉の体温が蓮から離れたかと思うと、今度は目の前に現れた綱吉の顔に僅かばかり驚いた蓮が微かに目を瞠る。
蓮の顔を覗き込む琥珀の眸が、氷蒼の瞳を映した。

恋人同士にしては無機質に、嫌疑にしては真っ直ぐに、意味すら分からぬ見詰め合いは果たして一時か永遠か。
終わりは実に呆気なく。
にこり、と喰えない笑みで口角を歪めた綱吉が「こっち」と何事も無かったかの様に蓮を先程まで自分が座っていた場所へと導いた。
何事だと訝しみつつ従えば、綱吉は先にそこに腰を下ろし、笑顔で両腕を軽く広げた。
その意図を察し、蓮は冗談じゃないと背を向ける。
直後、後ろから伸びてきた腕が蓮の腰を拐った。



「…っ!?」



咄嗟の事に蓮が反射的に戦闘体勢に入る。
殺気を放ち、即座に逃れようとする身体をその前に引き寄せ、背後から抱き締める。
ぽす、そんな音が聞こえるかの様に綱吉の胸へと収まった蓮は、視界の端に映ったハニーブラウンの髪を見て、直ぐ様戦闘体勢を解いた。
クスクスと愉快そうに笑う声が頭上から聞こえ、蓮の気分は更に降下していく。
「まるで必死に威嚇してる猫だね」笑い声の合間に聞こえてきた声に、これ以上の抵抗は無意味だと、蓮は諦める様に溜め息を吐いた。



「…それで、結局本日はどういった御用件でこちらに?」

「俺のジュリエットに会いに」

「他の女の痕を付けて?」



「とんだロミオですこと」と嫌味を言えば、嫉妬?とそれは楽しそうに訊いてくる。
お好きな様に。
無駄な抵抗を諦めた蓮は、どうでもいいと云わんばかりにそう冷たく言い放った。
すると、ならそう捉えさせて貰うよ、と綱吉が耳に囁く。
告げる綱吉が笑っているのだろうと思うと、やはり蓮は腸が煮え繰り返る思いだ。
表情には出さずとも、その内は大いに荒れ果てていた。



「それにしてもよく分かったね、痕なんて。見えないと思うんだけどな」



綱吉の指先が蓮の首筋に這う。
艶かしいその動き、言葉の意図を察して蓮は詰まらなそうに嘲笑を浮かべた。



「その痕ではごさいません。分かりませんか?貴方から漂う欲を誘う女物の甘い“香”に」



その言葉に指の動きが止まった。



「“香”?」

「ええ。しかも一種の精神高揚効果付の」

「へぇ、只の香水にしては嫌に不快だと思ったのはその為か。
でも、効果は薄いようだね」

「最近開発された特殊なものですから、まだ試作の域を出ていないのでしょう。
況して貴方は薬物に耐性がある様ですしね」



クスクスと綱吉が笑う。
「俺は実験台にされちゃったって訳か」と言う綱吉の声には怒気は込もっていなかった。
全く気にも留めていない。
ただ、無力な小物の反応を愉しんでいる。
そんな冷たい笑い方。



「でもさ、これでも俺、匂いは落としてきたつもりなんだけど」

「私は少々嗅覚に優れておりますので」

「成る程、本当に猫みたいだ」



背中から回る綱吉の腕に力が籠る。
閉じ込めるかの様なそれに蓮は特に抵抗は示さず、代わりに深い溜め息を吐いた。



「それにしても、君は何処でそんな情報を?」

「予測は立っているのでしょう?」

「そうだね、君の所の者達は優秀みたいだ」

「“私の”、ではございませんが、否定は致しません」

「益々興味深いね」

「地獄に?」

「地獄と、君に」

「深入りはお勧めしません」

「地獄に?君に?」

「分かっていながら訊ねる貴方も大概意地が悪いのでは?」



蓮の嫌味に肩を竦めた綱吉は「否定出来ないなぁ」と笑った。
つくづく面倒な男だと、蓮は思う。
早急にお帰り願いたい。
その願いが通じたのか、蓮を拘束していた腕が解かれた。



「お帰りですか」

「嗚呼。元々イギリスに来たのは別件だったからね。言っただろう?
今日は君に会いにきただけだって。
蓮に会いたくなったから寄っただけなんだ」

「そうでしたか。長くお引き留めしてしまい申し訳ありません」

「いいや。楽しい時間をありがとう」

「勿体無いお言葉にございます。
またのお越しをお待ち申しております」



社交辞令なその蓮の言葉に綱吉は微苦笑した。
離れた蓮が頭を垂れるのを見ながら、音も無く席を立つ。
そのまま扉へと向かうのかと思えば、そうだ、と彼は思い出した様に声を漏らした。
スッ、と蓮の前に影が射す。
何かと問う前に、筋の通った細い指が蓮の顎を掬った。
下げていた頭が強制的に上がり、視界が開ける。
しかしその目に映ったのは、至近距離で蓮を覗き込む綱吉の眸だった。



「あの香に色情を掻き立てるものがあるなら、それを嗅いだ蓮はどうなの?」

「薬物に耐性があるのは、貴方だけではございません」

「流石インフェルノの次期ドンナ。
情報網といい、本当にこのファミリーは優秀だね。
なのに何故…」

「……」

「何故、インフェルノは未だにこの世界で最弱等と言われているんだろうね」



琥珀の眸が真っ直ぐに氷蒼を映す。
その中で、固く結ばれていた唇がゆっくりと動き出した。



「言った筈ですよボンゴレ。
深入りは勧めません、と」

「インフェルノは、インフェルノは最弱と呼ばれている。
確かに規模でみたらそれも頷ける。
けど、情報処理の能力“のみ”は他の追随を赦さない。逆に言えば、インフェルノは情報処理にのみ特化したマフィアだ。
確かに情報は要となる。けど、個人や少人数の情報屋ならまだしも、いくら小規模とはいえ、ファミリーとして機能してる程の構成員がいる組織が情報だけで生き残れるって?
有り得ない」

「………」

「実在するんだろう?地獄を守護する、“地獄(インフェルノ)の鬼”は」

「その真偽が、貴方が私に接触する目的ですか」

「否定はしないね」

「私からお話しできる事はございません」

「話す事は出来なくても、知ってはいるんだね」

「言葉の綾です。失礼致しました」



未だ掴まれている顎の所為で、顔を背ける事は出来ない。
頭を下げる事もせず、真っ直ぐに綱吉を見て告げた蓮の言葉に綱吉は小さく息を吐いた。



「鬼の存在が噂されている事は?」

「外でインフェルノの守護をせしものと扱われている程度ならば」

「あくまで噂だと?」

「、所詮は都市伝説の延長と判断しております」

「火の無い所に煙は立たない」

「貴方はその火を既に口になさっております」

「最弱のインフェルノ」

「ええ」

「まるで鼬ごっこだな」

「否定は致しません」



台詞を取られ、綱吉は疲れた様に溜め息を吐いた。
「…また来る」耳元で囁き、掠め取る様な口付けを残し身を翻す。
頭を垂れて見送る蓮は、綱吉の気配が完全に消えたと分かると苦笑を漏らし、ポツリ…と呟きを落とした。












「“地獄(インフェルノ)など…


知ってはいけない”…」





去った男にその忠告は届かない。
それでも“彼女”がそれを“ 言葉にした”意味はある。
思惑あって自分に関わってくる綱吉に蓮は決して好意等抱いていない。
けれど綱吉の本質を見誤る程、彼女の瞳は曇ってはいなかった。
彼の温かな琥珀には、彼女の焦がれる光があった。
焦がれ、求めて、そして守ると誓った黄金に宿っていたものと同じ光。
彼自身には欠片も無い好感ではあるが、その眸には焦がれる。
失われない様に守りたいとも思った。
だからこそ彼女は“関わるな”と念じ、口にする。
世界の裏の王者たるボンゴレ]世。
しかし此処、インフェルノは彼の領域ではない。
インフェルノというこの小さな世界の王は此処でのみ神となる。
支配も破壊も創造も王の意のままである。
例外は、無い。
綱吉とてそれは同じ。
彼が地獄の深淵に踏み込めば踏み込む程、彼は地獄の亡者の手に捕らえられ、王の下へと落ちるのだ。
そうして王はあたかもミーノスの様に彼を判じ、断罪する。
“地獄”を知った者が“地獄”でそれから逃れる事は出来ない。
しかし知らなければ?
無知であればどうだろう。
“地獄”が何たるかを知らなければ、領域を侵さなければインフェルノは常に中立を貫き、成りを潜めていた。
“地獄”とは隔離され、秘匿とされたものだ。
暴こう等としなければ、“地獄”は隔離されたまま。
表であろうと裏であろうと干渉する事はない。
その為の“地獄”なのだから。
そう、つまり触れなければいいのだ。
“インフェルノ”という異形に関わらなければ、無知ならば、幸を得られる。
今の日常を安寧とし、享受できる。
ならばどうして接触が破滅であると知っていながら無視出来よう。
あの輝く光を、美しい琥珀を曇らせる事など出来ようか。
だから彼女は口にする。
呆れられ様と、ただの言葉では無意味だろうと、彼女は何度でも綱吉を否定する言葉を投げ掛けよう。
せめて自分が彼を捕らえる亡者となる前に、まだ彼の光の喪失を怖れていられる間に。
どうかどうかと願いながら、彼女は幾度となく警告を、拒絶を口吟む。
それこそが、唯一、現王に比類する神城蓮に与えられたものだから。
彼に届くも届かないも、関係ない。

気付かないで、知らないで。

神城蓮が出来る最大の譲歩にして妥協を“神城蓮が”紡ぐ。


届かなかった言の葉の意味を、そこに込められていた彼女なりの思いを彼が知るのは、彼女が王として、亡者として相対した時だった。








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