デェトのお誘い


貧しい家に生まれた身である。近頃流行っている歌謡曲は兎も角、異国から渡ってきた音楽の嗜みなどないに等しい。
ただ、私の勤め先である「ハイカラヤ」はその名の通り、ハイカラなお店だ。お客様にも中々博識のある方が多く、居候の村雨先生は小説家をしている文化人である。だから、その申し出に驚くより先に、まるで縁の無かったハイカラな単語を思わず繰り返した。


「ジャズ、レストラン…ですか?」

「そうだ。ジャズという、外国の音楽を演奏しているんだよ」


そこでは、そのジャズとやらの演奏を聴きながら食事を取るらしい。メニュウも洋食なのだという。ハイカラヤでも洋風の軽食はだしているものの、しっかりとした食事は置いていないので、馴染みはあまりなかった。


「だが、そんなに畏まった場所ではないから、一緒に来てくれればそれで構わないんだが」

「で、でも……村雨先生、懇意にしている女性とかいるんじゃ…」

「万年この店に入り浸っている俺に、そんな相手居るわけがないだろう。あんたが一番親しいんだ、だからこうして誘っているんだが、駄目かい」

「……」


突然の誘いではあったが、あの場で否と断れる訳がなかった。私のような一介の女給に、お世話になっている殿方からのお願いを断るような真似、できるわけがない。
それに、洋食屋なんて滅多に行けない。お金もかかるし、一人で入りにくし。ましてやジャズレストランなんて、これから先、行く機会はないかもしれない。村雨先生はしっかりした人で、知らない仲ではない。折角、同伴者として誘っていただいていているのだ。むしろ有難いとこちらからお願いすべきことではないだろうか。


ということで、私は村雨先生に連れられて、件のレストランへ来ていた。

お洒落な内層やどこか畏まった客層に引け目を感じながらも、店内には賑やかな音楽が流れており、次第に緊張は解れていった。ジャズ、なんて初めて聞いた。陽気でハイカラな旋律。小さな舞台での生演奏。
すっかり場の空気に飲まれてきょろきょろする私に、村雨先生はふっと笑って唇を動かした。


「え、あの、今なんて」

「楽しそうだ、って言ったんだよ。ジャズは気に入ったかい」

「はい!」


聞きとれずに首を傾げると、先生はすっと顔を寄せる。耳を寄せなければ会話は成り立ちそうにない。それなりに演奏は音量があるからだった。でも不快ではないし、先生も私の答えに満足気に頷く。
運ばれてきた飲み物に口を付け、じっと私を見つめる先生。その視線は私から外れない。どうしてだろうと思いながら、先生の用事は済みそうなのかと疑問を口にした。


「先生、良い作品が書けそうですか?」

「作品?何の」

「何のって……あの、ここの様子を次の小説の題材にされるのでは……?」


問い返された言葉に首を傾げると、村雨先生は呆れたように私を見つめた。


「なんだ、あんた、俺が取材の為にここに来たと思ってたのか?」

「え、違うのですか」

「違う」


なんということだろう。てっきり取材だと思っていたのに、違うらしい。こういうところへ男性一人で来るのは体裁が悪いのかもしれない、だから手頃な私をお供に誘ってくれたのだと、すっかりそう思っていたのだ。
取材でないならば、どうして彼は私をここへ誘ったのだろうか。目を白黒させて驚く私に、村雨先生は喉の奥で笑う。それから、ぐっと彼の唇が私の耳に近づけられる。そして、低くて甘い声で、囁いたのだった。


「男が親しい女を食事に誘うのは、デエトに決まってるじゃないか」


そんな決まり、私ははじめて聞いた。
そしてそんな事を囁かれた私はどう答えたらいいのだろう。それよりも、彼の色気のある声に当てられて、一気に頬が熱くなっているし心臓が早鐘を打ってどうしようもない。お手上げである。


「は、初耳です…」

「これで一つ利口になったな。ちなみにこの後の恋愛につても教授差し上げようか?」


じっと見つめられて、身動きがとれない。断る理由も、勇気もない。
どうやら私は、一からこの村雨先生に、教えを請うしかなさそうだった。



160620



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