それは甘くて儚くて その突然の申し出に、薫の形の良い唇が、これでもかというほど嫌悪に満ちた形へと歪められた。 「…は?」 ことの発端は、千夜の妊娠発覚だった。今月、千夜は千景と共に東京へ来ることになっていた。だが、妊娠発覚によりその予定は白紙に戻されたのである。 「姉さんは、大切な懐刀を腕の良い鍛冶師さんに預けているみたいで、それを引き取りにくる予定だったみたいだけど…懐妊で急に来れなくなったから、薫と私の二人で取ってきて欲しいんだって」 千鶴の言葉に、薫は顔を更に歪める。 「…そんな大切な刀、俺たちに代理で取りにいかせていいのか?流石に九州までは届けられないし、人間の配達に任せるわけにもいかないんじゃないか」 「それは問題ないみたい。天霧さんが、来ているもの」 「それなら、天霧が取ってくればいいじゃないか」 「それは…そうなんだけどね。風間さん、ついでに私たちに姉さんの懐妊祝いの品を選んで来いって、大金を天霧さんに持たせて渡してきて…」 「………」 いつものように、薫が下宿先の主である勝に言いつけられた用事を済ませた後のことだった。その足で千鶴の様子を見に行ったら、彼女は薫の訪問を待っていたと家へ招き入れたのだ。そして見せられたのが、今千鶴が言った内容の書かれた風間千景からの文だったのである。 二人が姉と慕う千夜の用事を、代理で済ませるのはいい。彼女への贈り物を選ぶのもいい。ただ、それが姉の夫である風間千景の命令だと思うと大いにやる気が削がれた。それは千鶴も同じなのか、彼女も微妙な表情を浮かべる。けれど、とりなすように続けた。 「ま、まあ、過程はどうであれ、姉さんのお祝いをしたかったのは確かだから。風間さんの言う通り、薫と私で選んだらきっと喜んでくれると思うよ。だって私たち、姉さんの数少ない身内だから」 「…仕方ないな」 渋々頷いた薫に、千鶴は嬉しそうに顔をほころばせた。 そんなことがあり、実際に出かけることになったのは翌日のことである。承諾はしたけれども、気が進まないのには変わらなかった。薫は、やや強張った面持ちで千鶴の隣を歩く。 薫の気がのらないのは、風間の言いつけだからというだけではない。実をいうと、千鶴と一緒に出かけるという点が薫の足を重くしていた。 風間の里での千夜との再会、その後、姉に同行した東京での千鶴との再会。それらを経て、この数年で薫は千鶴との距離を縮めてはいる。だが、まだ薫の心には罪悪感が深く突き刺さったままだ。千鶴に逆恨みをして、幕末期にやらかしたことを、未だに後悔して千鶴に遠慮している。 近頃では普通に会話をし、兄妹として接してはいるが、どこかぎこちない。こればかりは、時がなんとかしてくれるのを待つしかないのだ。 (それを…分かっていてあの男、俺と千鶴とを一緒に出かけさせたな…) 風間は決して、馬鹿でも察しが悪いわけでもない。非常識なだけだ。そして、そこが最も腹立たしい部分なのである。 「薫、ちょっと寄り道してもいいかな。買い足したい日用品があって」 「ああ…うん、構わない。荷物があったら持つ、言えよ」 「うん」 そんな会話をしながら、先に姉の代理の件を済ませる。それから、贈り物選び。この段階になって、千鶴は困ったようにに薫を見上げた。 「ねえ、薫、どうしよう…?」 千鶴が眺めているのは、帯留だった。いくらあっても込まれないからという理由で、帯留を選ぼうと先に決めてあったのだ。でも、改めて店に来ると種類の多さに度肝を抜かれてしまったのである。 千鶴も女なので、このような買い物をしたことは何度もある。だというのに気遅れしているのは、ここが高価な呉服を扱う店だからだ。風間の寄こした金は大金と呼んで差し支えのないものだったので、それに見合う物を悩んでいた薫に勝が紹介した店だった。 千鶴は、こんな大きな店に来たことはない。だから、見ていて可哀想な程目をうろうろさせている。ずっと後ろで黙っていた薫は、千鶴の表情に溜め息を吐くと、彼女の前へ立った。 「ほら、千鶴。どんな色が良いかまず決めるんだよ。姉さんに合うのは、何色だ?」 「え…あ…そうね、やっぱり、紫色が似合う印象があるかな」 「それだったら、紫と、それに近い色合いの赤や青系統のものも用意してもらおう」 薫は手慣れた様子で、店の者に持ってくるものを指示する。千鶴とは異なり、薫は何度か似たような店に入ったことがあった。…主に、女装をしていたあの頃のことだったが。 色を決めたら、次は柄。そうやって絞っていったことで、数本まで絞り込めた。 「あとは、この中から選べばいいんじゃないの」 「うーん…これなんか可愛いと思う。でも、こっちも捨てがたいかな…」 千鶴は二本を手に取り、それから薫の表情を窺った。 「なんだよ」 「さっきから、私ばっかり選んでるから…薫がどっちか決めて?」 薫は眉根を寄せたが、千鶴は怯むことなく笑顔で差し出す。ひく様子のない妹に、仕方ないと口を開いた。 「――左は、姉さんには幼すぎると思う」 「わかった、じゃあこっちね」 薫が会計を済ませ、商品を受け取る。そうして店を出た途端、千鶴はほっとしたように顔を緩ませた。そんな些細な千鶴の様子が好ましいと、薫も少しだけ表情を和らげる。 それから、千鶴へひとつの包みを押し付ける様にして渡した。 「ほら、持って帰れ」 「え……これ…姉さんには似合わないだろうって…」 それは、先程迷った挙句に選ばなかった方の帯留だった。確かに姉にと購入したのは、もうひとつの大人っぽい印象の方である。きょとんとする千鶴に、薫は顔を背けながら呟く。 「姉さんには、幼すぎて似合わないよ。それは、お前の分だ――千鶴」 「…薫、いいの?」 「もちろん、風間の金は使ってないよ。どうせ、勝から貰う駄賃の使い道に困っていたんだ。ついでだよ」 言い訳がましく続けた薫は、照れているのか千鶴を見ようとしない。けれども千鶴は、この帯留が決して安いものではないと知っている。特にお祝いされるようなことをしてはいない千鶴は、本来ならばこんな高価な贈り物、遠慮して受け取りはしない。 でも彼女は、薫がこれをどんな気持ちで渡してくれたのか、少しだけだけれども分かるような気がした。だから、ぎゅっと帯留を抱きしめる。 「ありがとう、大切にするね」 「…うん」 柔らかく笑んだ千鶴に、薫はほっとした。 この程度で償えるものではないと、わかってる。それでも、少しでも妹に何かしてやりたいと薫は兄心に思う。もしかして、償いなんて関係ないのかもしれない。ただ千鶴の笑顔が見れればいい…そんな風にさえ、思うのだ。 (少しずつでも、千鶴に何かを返せれば、いい) そんなことを想いながら、薫は千鶴の手を引いた。 * 「それで、これを二人が選んで贈ってくれたのですね。嬉しい、ありがとうございます」 「ふん…この程度、当然だ」 天霧が届けてきた不意打ちの贈り物に、やや驚きはしたものの、すぐに嬉しさの方が勝った。遥々東京へ懐刀を引き取りに行ってくれただけでなく、まさか千鶴と薫から贈り物をもらえるだなんて思ってもみなかった。 この素敵な企みの首謀者に心から感謝すると共に、近頃の彼の態度にはやや行きすぎたものを感じる。 「千景、貴方ちょっと過保護が過ぎません…?」 「気のせいだ」 東京行きの件は本当に気にしていたことなので、助かったし有難かった。だけれど、あの件は本来、千景に代理を頼んだ筈だった。丁度、千景も東国の方の鬼の情勢を見ておきたいと言っていたから、ついでにお願いしますと丁寧に頼んだ記憶があるが…。 (私の側を、離れるわけにいかないからって…九寿におしつけたのね) 懐妊が発覚してからというもの、千景はやたらと私に構いたがる。夫に気遣われるのは嬉しいことではあるけれど、こうもあからさまだと困ってしまうのも事実。 「私、お産は二度目ですしそんなに気を使っていただかなくても…」 「油断をするな。お前が身ごもっているのはこの俺の子だ、無事に産んでくれないと困るからな。それとも、千夜」 「はい、なんでしょう」 「俺と、こうして共に居るのが嫌だとは言うまいな…?」 ぎゅっと手を握り、囁かれ。 婚姻を結んでもう数年経つとはいうものの、やはり惚れた弱みというべきか、そんな風にされると無下にはできなくて。 つい、甘やかされてしまう。 握り返した手に、千景は満足そうに笑んだ。 140418 |