小指に誓いの口付けを


許嫁として定められたのはとても幼い頃の話。当然私に意思などなく、物心ついた時からずっと私はその家へ嫁ぐことを当たり前のように受け入れていた。

私自身その婚約に何の不満もない。相手方は鬼の一族の中でも最大規模の名家、一方私の家は可もなく不可もなくといった具合なので、私が嫁ぐことで家名を守ることにもなる。それに婚約相手は、気品のある優しく素敵な殿方。だから嫁入りを、楽しみにさえ思っている。

でも何よりも嬉しく思っていたのは、彼の母上が憧れの若紫鬼様だということ。幼い頃からその事実に、胸を高鳴らせていた。





「せっかく来ていただいたのに、ごめんなさいね。あの子ったらまた里から抜け出してしまったらしいの」

「あ、いえ。お気遣いなく…突然の訪問でしたので」

「あら駄目よ。可愛い許嫁をいつまでも放ったらかしにしているあの子に責任はあるわ」


近くまで用事があったついでに、嫁ぎ先の里へ寄らせてもらうことにした。名門風間家。明治維新を迎えて数十年、全国の鬼を束ねその在り方を示した頭領の統べる里。
外出している婚約相手の代わりにと、出迎えてくれたのは私の義母上となる方だった。緊張と喜びに、心拍数が上がる。
風間家頭領の愛妻、若紫鬼様。その名は今や、女鬼たちの憧れの存在だった。私も幼い頃は彼女の逸話を聞きたいと、幾度も母親にせがんだものである。


「私こそ、若紫鬼様のお時間をいただいてしまいまして申し訳ありません」

「あら、堅苦しい呼び方はしないで。私は貴女の義母になるのですもの、千夜と呼んで下さっても良いのよ」

「そんな……っ、では…あの、義母上様とお呼びしても良いでしょうか」


彼女の本名は、広くは知られていない。若紫鬼は頭領様が自ら彼女に贈った字名なのだ。
けれど、まだ嫁いでないのに、義母上様だなんておこがましいだろうか。しかし、彼女は笑って快諾してくれた。


「ねぇ、変なこと聞いて良いかしら。貴女は、この婚約に納得しているの?」

「えっ…」

「気立ても良くて可愛らしい貴女には、他の縁談話もあったでしょう。もしうちの息子を好いていないのならば、無理に許嫁として縛られなくても良いのよ。家格を気にするのなら、他家を紹介してもいいわ」


思いもよらない突然の申し出に、すぐには答えられない。咄嗟に、自分では風間の嫁として不十分なのだろうかと思う。しかし。


「女の子は、幸せな結婚を選ぶべきなのよ」


諭すような義母上様の表情は、真っ直ぐに私を見ている。


「それではまるで、お前が政略結婚で無理やり嫁いできたようではないか」


どう答えようかと考えあぐねていると、背後から声。やってきたその人物に驚いて、私は文字通り飛び上がった。


「風間の御当主様………!お邪魔しております…っ」

「良い、頭を上げろ。末子の許嫁だろう、よく参った」


御当主様は若紫鬼様の隣へ腰を下ろす。若紫鬼様は少し拗ねたように、夫に言葉を返した。


「最初は政略策略による婚姻でしたよ、千景。昔のことはもうお忘れですか?」

「お前こそ良く思い出せ。俺は千夜を愛しているから結婚してくれ、と申し出た筈だ」


噂に違わぬ鴛鴦夫婦である。二人の恋物語は多くの里で広く囁かれているが、初めは利害の為の婚姻であったというのは本当なのだろうか。真実は二人にしか分からない。


「だが、千夜の言わんとしていることはわかる。あいつは自由奔放で女への気遣いなど出来ぬ男だからな。このお嬢さんが渋々嫁いでくるのは嫌なのだろう」

「ええ、良い子なんですけれど。こればかりは相性がありますから」


――若紫鬼様は、私を気に掛けてくれているのだ。もし他に好いている人でもいるのならば、遠慮せずに言いなさいと。

詳しい話は分からないけれど、若紫鬼様は産まれた当時複雑な立場だったと聞いている。そして、風間家へ嫁してくるに至るにも様々な障害があったと。
女の子は幸せな結婚を選ぶべき。
その言葉に込められた重さを、私では理解しきれない。だけど。


「――いいえ、義母上様。私はこの婚約、楽しみにしているのです」


心から思える、私はきっと幸せになれる。


「若様はとてもお優しい方ですし、義母上様や御当主様も良くしてくださります。この里で暮らすことが楽しみなのです」

「そう……」


若紫鬼様は、安堵したように微笑んだ。


「貴女のような可愛らしいお嫁さん、私もとても嬉しいの。それにあの子も、貴女をとても好いているから、貴女が風間家へ来てくれたら良いこと尽くしね」

「先程街へ使いを遣った。大慌てで帰ってくるに違いないな」


彼女にどんな物語があったのかは分からない。それは辛く苦しいものだったのかもしれない。

(でも今、あんなに幸せに満ちた表情を浮かべられる。素敵なこと)

嫁いでから尋ねてみようか、彼女の物語を。私も得ることができるだろうか、彼女のような幸せを。

(きっと大丈夫)

まだ時間はたくさんあるのだ。
まずは、駆けつけてくるであろう未来の旦那様を、最上の笑顔で迎えよう。



121005



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