消えないもの


はじめはおかしな人だと、不安に思ったのだ。けれども次第に彼がとても誠実で、そして仕事熱心な人だとわかってきた。
記憶をなくして半月。こうして彼と彼の仕事場で過ごすことにもだいぶ、慣れてきたのである。最初は一体なにをしたらいいのかわからなくて、仕事中の彼の隣で時間を持て余していた。けれども近頃は、その距離感が心地よくさえ感じていた。


「スパナさん、お茶です」

「ん、ありがとう。休憩にする」

「あ、じゃあお菓子出しますね。家で作ってきたの。おいしいと、いいんですけど」


焼いてきたクッキーを差し出すと、スパナさんは目を輝かせた。良かった。この行動は、正解だったらしい。
スパナさんは、イタリアから日本に働きにきている技術者さんだ。私はこの人と恋人だったらしく、こうして毎日彼の仕事場にお邪魔して、簡単な手伝いをさせていただいていたらしい。

突然の記憶喪失は厄介なものだ。ユニちゃんという、女の子(精霊なのだと彼女はいう)が私の精神とぶつかったことが原因なので、病院に行っても意味がないのだとか。本来の生活と同じ生活を続けるうちに記憶は戻るはずだから、という彼女の助言に従っているものの、まさかこんな恋人が私にいるのだとは思ってもみなかった。


「それにしても最近のナマエはなんだか、出会ったころのようだ。」


スパナさんのふとしたつぶやきに、どきりとする。記憶喪失であることは、秘密である。原因が原因だからだった。


「そ、そうですか」

「うん。何故か最近敬語だし、呼び捨てじゃないし、どこかよそよそしいというか…距離が、遠い」

「…!」


失態に気づく。私ってば、年上のスパナさんにタメ語だったのか。しかも呼び捨てだったのか。それを不思議に思っておきながら言い出さなかったスパナさんもスパナさんだと思うけれども。


「なんか怒ってるのかと思ったけど、違うみたいだな。クッキーは、いつも通りおいしい」

「そ、それはよかった…です」


今更呼び捨てと言われても、指摘された手前なんとなく変更しづらい。私にしか見えない妖精のユニちゃんは、はらはらと緊張した面持ちで私たちを見守っている。


「とりあえず、ナマエ」


と、急に腕を引かれた。
引き寄せられるようにして、私の身体がスパナさんの腕の中に飛び込む。


「ナマエの位置は、ここ。わかった?」

「……!」

「真っ赤だな」


言葉なく彼を見つめた私の体温は、あがるばかり。スパナさんはどこか満足そうに、にやりと唇を形作る。


「ねえ、ウチって頼りない?」


そうして囁く彼のことは、まだあまり思い出せない。
でも、最近これだけはわかるのだ。
私が彼を愛し、愛されていたこと。それは確かなのだろうと。

だって記憶がなくなってしまっても、覚えているのだ。身体は、彼に愛されていたことを、忘れて、いないのだった。


150816



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