リセット


ナマエが記憶を失ったことに気づいたのは、彼女が目覚めてからすぐのことだった。
彼女がいつもと違うことに気づかない方がおかしいのだ。自分がどんなに長い期間彼女を見つめていたか。それを思えばすぐに違和を感じたのは当然と言えた。

いつもはなかなか甘えない彼女は、どこか頼りなげに大人しく手を引かれていた。ナマエを彼女の住居に送り届け、そして何度か鎌を掛ける。何度かごまかそうとした彼女は、しかしあっさりと白状する。思った通りだ。記憶がかなり混濁しているらしい。どうやら、ほとんど彼女は自分のことを覚えてない。

そもそも、ナマエがこんな目にあったのは自分のせいなのだ。彼女が何か仕事を手伝いたいというから、簡単ではあるが的場の仕事を手伝ってもらうことになった。だが、それは予想に反してかなりの大物の妖が絡む事件に発展した。その課程でナマエは崖から足を踏み外し、ーー彼女の手を掴む前に、崖下に落下した。あれほどの崖から落ちて、少しの打撲と記憶喪失で済んだのは、幸運と言えるだろう。

(だというのに)

当の本人は申し訳なさそうに俯いている。つらいだろう。自分が何者か、曖昧な現在が。かわいそうだ。その苦しみを和らげてあげたい。――そう思う反面、いつものナマエとは違うその姿に、俺はどこか薄暗い感情が芽生えつつある。


「君は俺の、婚約者だ。覚えてますか」

「…はい」

「嘘をつかなくていい。曖昧なんですね」

「ごめん、なさい」

「謝らないでください。これは不幸な事故だ。でも、これだけは知っていてくれますか」


俯く彼女の顎を、そっと持ち上げる。至近距離で見つめ合う。ナマエは少し恥ずかしそうに、頬を染める。その初々しい姿に、旨が高鳴った。


「君と俺が愛し合い、そして愛を誓ったということを」

「ごめんなさい…思い出せなくて」


気まずそうに言う彼女は、わかっていない。でも意識している。俺を男として、そして婚約者として意識しているのだ。
元々ナマエとの間には隔たりがあった。ナマエよりも年下であることや、的場一門の関係、そして互いに素直になれない時期があったこと。だからこそ、婚約者の立ち位置までこぎ着けるのはかなり大変だった。今も、時折不安になる。彼女を逃すつもりはない。けれども、ナマエが自分との婚約を本心ではどう思っているのか、問いただすことはなかなかできなかった。

(だけれど、今、彼女は)

記憶がない。記憶がないということは本来の彼女を構成する大部分が失われているといっても差し支えのないことだと思う。今の彼女は本来のナマエではない。けれども、そのナマエは今、俺をきちんと異性として認識している。嬉しくないわけがなかった。


「かまいません。無理に思い出さなくてもいい――ナマエが俺の隣で、笑っていてさえいてくれれば」


そう、思いだなくていい。
俺にとってナマエはナマエであるだけでいい。ナマエが欲しいと思ったのは、幼い日に出会ったあの瞬間だ。妖に怯え、怖いとふるえていた少女を助けてやりたいと願った。だから。

記憶なんて、なくていい。かつて妖によって苦しんだことも、それでも的場一門の中で頑張っていたことも。意地を張って俺から逃げていたことも、全部。

全部全部忘れてまっさらなまま、この腕の中に居てくれるのならば。それでかまわないと半ば本気で、思い始めている。

もう、力のない子供ではないのだ。今、まっさらな彼女を最初から、守ってやれるのならば。
それでもいいと、思っていた。



150816

「逢魔」でハートルートパロでした。
的場さんは崖から落ちたから記憶を失っていると思っているけど、実際ナマエはにゃんこ先生のせいで記憶失ってます。以下、元ネタ知っている人向けいいわけ。

シンな的場さんでした。幼馴染みから恋人へ漕ぎつけたシンなので、年下上司で婚約者まで漕ぎつけた静司さん採用でした。シンと違うのは、記憶失ったことで彼女の心労が軽くなってよかったと思ってることと、記憶失ってても逃がさないしいーやって割と最初から思ってるあたりかなと。ちなみにこのルートでのトーマポジは勿論名取くんになります。お察し。




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