目覚めた先には 目を覚ますと、真白い天井が私の視界いっぱいに広がっていた。何故か、体中が痛い。軋む身体を動かすと、白い天井と対照的に、黒い男が私の視界を占領した。 「ナマエ…?」 彼は、少し変わった風貌をしていた。顔は整っている。長く伸ばした長髪、そして片目を覆うのは眼帯である。 思い出せない――わからない。私は、この人を知っているのだろう。でも、何一つ思い当たる節がなかった。 彼は私の様子に、状況を察したらしい。寂しそうに、けれど納得といった様子で呟いた。 「混乱しているようだな。無理もない。君は――崖から落ちたんだ」 彼の話によると。 私は仕事中にと”ある事故”で崖から落ちたらしい。その時に意識を失い――そして、病院に運ばれた。そのまま三日間目を覚まさず、そして今、ということだった。どうりで、身体中が包帯だらけなわけである。 その後、男は医者を呼んでくるからといって席を外した。その隙に、私はすかさず自分のらしき鞄と携帯電話をチェックする。――私にしか見えない、”彼”の指示に従って。 <あやつの名前は”静司”というようだな> 不細工な猫――にゃんこ先生、と名乗った彼は唸る。猫にしてはふざけた外見のそれは、妖怪と分類されるものらしい。普段は人間とは相容れないもののようだが、ある衝撃で私の精神と一時的に融合してしまったらしい。その反動で私は記憶を落としてしまったのである。 にゃんこ先生の姿は、今私にしか見えない。記憶を取り戻すことが先生との分離の近道だということで、彼は私の記憶探しに全面的に協力すると申し出たのだった。 といっても、私は自分がナマエという名前であることくらいしか覚えていない。実のところ、人格レベルで忘れ去ってしまっているらしかった(ここまですべて、にゃんこ先生の受け売りである)。 とりあえず分かったことは、私がナマエという名の成人女性であること。現在は家庭教師を仕事としているらしいということ。今が夏休みで、臨時でアルバイトをしているらしいということ。そしてその雇い主が、静司という先ほどの男性。 さらには。 「私の、婚約者?」 <どうやらそうらしい。というか、そうとしか思えんだろう> 携帯電話の中に収まっていたツーショット写真。私の指にはまった指輪。その内側に、イニシャル。 親しげな様子だったし、そうなのかもしれない。けれど、あっさりと受け入れられそうにない。静司さんのあの風貌。どう考えても、ふつうの人ではない。 「私は何の仕事をしていたんだろう」 <さあな。だが、やることは変わらんよ。記憶を取り戻せば、いいだけだ> 混乱している私を余所に、原因の妖怪はのんびりとしたものである。いい気なものだ。もっと真剣になって欲しい。 そうこうしているうちに、静司さんは医者をつれて戻ってきた。軽い問診を受ける。どうやら、今日はこのまま帰れるらしい。 「ナマエ、まだ万全じゃないでしょう。家まで送っていきます」 私は、頷く。ありがたい。家の場所すら、わからないのだ。 手を差し出され、素直にそれに指を絡めた。恋人同士ならば可笑しくない行動。しかし彼は少し驚いたように目を見張る。 「おや、今日は素直ですね」 <まずい、いつもナマエはこういう行動はしていなかったのか?!誤魔化せ、誤魔化せナマエ!> 「え、あ、ええと、」 「何動揺しているんですか。事故でまだ混乱しているんでしょう。私は、嬉しいですよ。君が弱っているからだとしても、こうして頼ってくれることは」 <よし、なんとかなったか!ナマエ、今後は気をつけろ!> ピンチらしきものを、一応切り抜ける。にゃんこ先生はあわあわと私の視界の端で騒いでいる。気をつけろと言われてもかなり困る。私が彼とどう接していたかなんて覚えているわけがない。 でも、とりあえず。こうして頼れる人が居てよかった。静司さんは不思議な雰囲気を纏ってはいるが、でも、優しいのは確かなようだった。 私は、手を引かれて立ち上がる。そして握られた手に、力を込めた。 「はい、よろしくお願いします。――静司”さん”」 私の言葉に、彼はわずかに、笑みを深くしたような気がした。 150816 |