誰かの叫び声と、はぜる炎の音とで目が覚めた。


「千夜、目を覚ましなさい!」


ぼんやりと目を開いた私を厳しい口調で呼んだのは、母だった。いつも穏やかな母が、とても険しい表情をしていた。それだけで、いつもと違う緊迫した雰囲気に気付き、私はびっくりして飛び起きた。


「今から里を出ます」


落ち着き払った母の声に反して、私はあまりの驚きに、言葉もない。私たちが、この鬼の里から出ることは禁じられているというのに。
しかし母は躊躇うことなく、続けた。


「決してお母さんから離れてはいけませんよ。決して、振り向いたり、立ち止まったりしてもいけません」


混乱で動けずにいる私を尻目に、母は慌ててこさえたらしい風呂敷をひとつ背中にくくりつけると、私の手を握った。いつもしっかりとした身なりの母は、今日なぜか寝間着のままで、髪さえも整えていない。

(余程、大変なことが起きたのだわ)

それしかわからなかったが、それだけで十分である。母の行動に従いながら、私はひとつだけ、父の所在だけ質問した。


「――お父さんは、後から来るわ」


母は優しく笑んだ。しかしこの状況に父がいないということが、酷く心細かった。どこかで、もう父には会えないのではないかと感じていた。それはどうやら母も同じだったらしい。母の笑顔は、私を安心させるためだけでなく、自分に言い聞かせるためだったのかもしれない。





一歩外へ出ると、そこは既に火の海だった。家という家を炎が包む。私たちの離れが燃えるのも、時間の問題だろう。少し離れた本家の母屋から、悲鳴のような声が聞こえた。恐ろしさに母の裾へすがりつく。
この光景を見て、ようやく私は気が付いた。里が襲われたのだと。


「千夜伏せなさい!」


突然、母が私を突き飛ばすようにした。はっとして受け身をとる。鋭い母の視線の先には、二人の男が居た。


「雪村の女鬼か」


にたり、と男が嗤う。


「…当家の者、ではないわね。夜中に人の家へ上がり込むのは失礼だと、習わなかったのですか?」

「ハッ、生憎俺たちゃそんな良いご身分に生まれなかったさ」


下品な笑い声を立てた二人の男は、品定めをするように私たちをみた。

「にしても、良い女鬼だなァ?しかもその着物、余程の身分らしい」

「ククク、母娘でこりゃァ、高くつくぜ」


襲撃者といえど、彼らは身分の低い者だろう。はぐれ鬼かもしれない。下品に笑いながら、私たちを売り飛ばす算段を始める。
母はすっと目を細めた。


「――通しては、くれないのですね」


それが、合図だった。瞬く間に、母の髪が真っ白に染まる。現れた額の角の下には、男たちを冷ややかに見据えた冷たい金の瞳が輝く。護身用にと携えていた短刀を構えると、あっという間に彼らへ切りかかった。
男たちも慌てて本来の鬼の姿へ変わるが、母の素早さと圧倒的な力になすすべもなく、地面へと転がった。

あのような雑魚共がのさばっているところをみると、里の壊滅は深刻らしかった。母屋の――本家の鬼たちの生存も、怪しい。

それでも私は、間近で見る母の強さに安堵する。雑魚といえども、敵を倒したということで、このまま逃げ切れるのではないかと。
それが、油断につながった。




「流石は、東国一の鬼と云われた紫の上殿だ。こんな雑魚では話にならん、か」

「…!」


突如、母の背後現れた殺気に、目を見開く。とっさに身を翻し私を庇うようにするが、避ける間もなく男の刀が脇腹へ深々と刺さった。


「母さま!!」


吹き出す血潮。その傷はすぐに癒えたが、大勢を整える間にまた一突き、体を支える為に突いた左手が、地面に縫い付けられた。だが母は構わず空いている右手で抜刀し、男の体へ斬りつけた。


「ほう、度胸のある女鬼だ。本当は生け捕りにしようと思ったのだが、これは本気でいかないと私がやられそうだ。――それに、女鬼はひとりではない」


月が雲に隠れ、辺りはほの暗い。離れた所ではぜる炎の光が逆光となり、男の顔は見えなかった。
立ちふさがる黒い影に、ギラリとした目だけが浮かび、気味が悪い。不意にその目が私に向けられた。途端、汗が噴き出した。母が圧されているという事実、殺されるかもしれないという恐怖が押し寄せる。母に劣らぬ鬼としての気迫を感じ、それが私を縛り付け、体がどうしようもなく震えた。

鬼の血が濃く力の強大なものは、殺気だけで相手を圧倒する。目の前の鬼は余程の格の鬼だと、自分に流れる血が告げていた。

「久しいな、紫の上」



雲に隠れていた月が、突然姿を表した。







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