濁声の残響に眠る




幽かに覚えている記憶は、静かで寂しくて優しいものだ。しかし、記憶というのは無意識に美化、拡張されるもの。どんな強烈な記憶も、美しい記憶も、きっと実際には大したことではなかったのだろう。
それは自分でもわかっているのだが、力の強い鬼を前にすると、今でも恐怖に捕らわれる錯覚に陥る。

帰った時に使用人が着せ替えてくれたらしい寝間着から、私は飾り気のない白い小袖へと着替える。お気に入りだった藤色のものは、先程の雨と…血とですっかり駄目になってしまった。それが残念で、同時にその時の恐怖を思い出した。あの異様な光景。人体を切り刻む、浪人の姿を。
あの男は、「羅刹」とそれを呼んでいた。聞いたこともない。でも、ただの人間ではないのだろう。「あれ」からはヒトの気配もしなかった。かと言って我々と同じ鬼ではない。「あれ」はもっと汚れおぞましいものだ。

(知らなければならない、沢山のことを)









「先程は、挨拶もせずに失礼致しました。雪村家先代の長子が娘、勝改め、雪村千夜と申します」

「漸く、鬼として向き合う決心がついたか」

「ええ、仰る通りです。しかし雪村の姓はとうに棄てたもの。もう本家は滅びたとはいえ、本来は私に名乗る権利などありません」


にこりともせず話始めた私に、風間は嫌な顔することなく、むしろ満足げに頷く。雪村を名乗ったのは、本当に久しぶりだった。
それにしても綺麗な鬼だと、こっそり思う。輝くような黄金に、赤い瞳が映える。街中で見かけたら、思わずうっとりしてしまうような美貌だろう。でも、私の身体は私の意志に反して、小さく震えた。


「…私には、鬼としての知識が乏しい。故に貴方の、風間の姓を聞くのは初めてなのです」


震えを抑えるように、そっと自分の胸元に手を伸ばし、袷を直すふりをしてまた手を戻す。勿論、寒さから震えているのではない。
この鬼が持つ力に、飲み込まれそうだった。あまりの存在感に、自分の鬼の血がざわつく。
そして、今から知らなければならない真実に、決断しなければならない現実に、恐ろしさを感じていた。


「風間家は、西国一帯の鬼を束ねる一族。東国の雪村と同格だと思ってもらって構わぬ」

「その風間家の当主ともあろうお方が、護衛も連れず直々に?もしや、羅刹とやらに関連しているのではないですか」

「護衛など煩わしいだけだ。それに俺は、羅刹の世話をしてやる程暇ではない」

「羅刹は、私を探しているのでは?」


私や養父は当然その可能性について考えていた。しかし風間にとって、それは意外な問い掛けだったらしい。平然を装っていた顔が、驚きのそれへと変わる。
そういえば、先程もそうだった。養父が私を殺しにきたのか、と聞いた時だ。私と風間の間には、明らかに何か大きな相違の違いがある。
大きく目を見開いた風間は、それでも取り乱すことなく呟いた。


「一体…どうなっている。なぜ、お前達は刺客を恐れる。雪村家は滅びたが、それは結果。今更生き残りを抹殺するような阿呆はいないだろう。お前が勝の姓を名乗るのも、同じ原因か」

「いえ、私と勝殿は正式な養子縁組みした親子。とはいえ、私は人間の戸籍を持っていませんけれど。だから今の私の姓は勝なのです」

「…正式にだと?なぜ、人間とそこまで関わる。雪村家が滅びたのなら、他の鬼を頼ればいいだろう。鬼同士とて、同胞の危機には手を貸す」


驚いたのは、私の方だった。
突然知らされたのは、思いもよらない真実である。まさか、と私は問い返す。私の指先は緊張のあまり冷え切っていた。


「風間様は、ご存知ないのですか」


男は「何を」と首を傾げた。決して嘘をつき、私を騙そうと考えている様子はない。大体、知っていたなら隠す必要などない。
私にはそれで十分だった。あれは、風間家の頭首の了承無しに行われたことだというわけだ。


「――雪村の滅亡については?」

「雪村が滅びた時、俺もまだ餓鬼だった。雪村に関する知識は、その後に人伝に聞いたものにすぎない。詳細は知らぬ。だが、人間に滅ぼされたと」


あぁ、なんていうことだろう。
風間の言葉は、私を絶望の淵へと容赦なく叩きつける。恐ろしい。あの日に見た、汚い人の、否…鬼の心が脳裏に蘇る。怖い怖い怖い。
震える声を抑えて、私は気丈に風間を見据えた。


「人間なんかじゃ、ないわ」

「何…?」

「本当に、ご存知ないのね。そんな風に伝わっていたなんて…。雪村を滅ぼしたのは同胞。鬼よ」


きっとそれは、彼にとって予想もしなかった言葉に違いない。



090629



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