お噂は兼々訊いておりますので




暗い夜の山道だった。
夜陰に紛れて私は母の手に引かれながらひたすらに走った。追っ手がすぐそこに来ているかもしれない。だから鋭利な石や枝でいくら裸足が血だらけになっても、疲労で感覚がなくなっても、足を止めるわけにはいかなかった。何時もは身嗜みをきっちり整える母も、今日は寝間着のままだ。もつれる足を引きずる私を励ましながら、母は繰り返し呟いた。

(千夜、ごめんね千夜、私があなたを産んだのが罪なのです――)





「――嫁ぐ、ということは私が貴方の子を産むという意味ですか?」


男、風間千景が口にした一言にまるで魔法を掛けられたかのように私の心は重く沈み、幼少の頃の良くない記憶を呼び覚ます。だが私の口から出た言葉は動揺でも憤りでもなく、冷静で淡々としたものだった。


「話が早いな。自らが貴重な女鬼だということを自覚し、その価値の使い道を心得ているか」


風間は満足げに嘲笑った。彼は、女鬼を道具としてしか見ていないのだろう。女鬼の価値だなんて純血主義者の理屈、考えるだけで不快になる。養父は成り行きを見守りつつも不安そうな顔をしたが、私は表情を変えずに続けた。


「貴重な女鬼といっても、西国の鬼の頭領ともあろうお方がこんな東の田舎娘なんぞにどうして興味をお持ちになるのでしょう」

「千夜、」

「お帰り下さい」


強い口調で言い放った私の肩を、とっさに養父は抑えるように掴んだ。今ここで下手に怒らせては面倒だし、断るにしてももう少し丁寧な言い方があっただろう。そう養父は言いたげだったが、どうせ断るならきっぱりしていた方がいい。
しかし、私のあからさまな拒絶にも関わらず風間は不快な顔ひとつ見せなかった。むしろ楽しそうに口角を上げる。


「雪村の姫が田舎娘か?」

「…私は雪村ではありません、勝千夜です」

「強情な娘は嫌いではない。このまま押し問答を続けてもいいが…俺にも時間がないからな。単刀直入に言う。お前でなければならぬ。是が非でも嫁に来てもらう」


――この男は、私に結婚を申し込みに来たのではない。私を攫いに来たのだ。
瞬時に理解した。断っても簡単には諦めてくれないのだろう。それ程までに、雪村の血が欲しいか。…純血を好むのか。

(それでも私は子を産むわけにはいかない)

昔に決めたことだ。もう鬼とは縁を切った。しかし目の前の鬼をどうにかする手だてが見つからなくて、私は唇を噛み締めるしめる。その時、見かねた養父が口を挟んだ。


「風間とやら、お前は京で薩摩方に与していた男だな?」


養父の言葉に驚いたのは、私の方。え、と養父の顔を振り返ると、彼は険しい顔で風間を見据えていた。


「俺を知っていたか」

「鬼神のごとき剣技や人間離れした力業で戦局を意図も容易く替える男だってだけだ。しかし、猫のように気紛れで傲慢、いい噂じゃなかったぜ」

「…人間共にどう思われようと、興味ない。俺こそ勝安房守殿の噂は聞いている。幕府に身を置きながら倒幕を支持する物好きだとな。真逆、女鬼を匿うほど物好きとは思わなかったが」


鳥羽伏見の戦いにおいての薩摩方は、幕府にいた養父の敵方。しかし、かつて渡米した経験のある彼にとっての薩摩は開国を共に世に促した協力者である。そのせいか薩長に知り合いが多く、風間の噂もその筋からのものなのだろう。


「だが、誰から聞いた。俺ァ千夜の正体は誰一人に打ち明けてねぇんだ」

「鬼を甘く見るな、勝安房守。鬼の気配に一番聡いのは鬼。近くにいればわかる。――だが、この時までに女鬼を匿い続けたことは賞賛しよう」


緊迫した雰囲気で、養父も風間も謙ることなく互いをさぐり合っていた。
実際に鬼と対峙しても引けをとらない位、養父は鬼のことに詳しいようだ。それはきっと、私よりも。私は今まで養父に"人間として"育てられた。私を養父、勝海舟に預けると同時に母が亡くなって以来、私の鬼としての知識は培われていない。養父はただ、私が人間としていきられるだけの知識や力を授け、実際に鬼の存在からは遠ざけていたのだ。


「その女鬼が、巷でどんな噂になっているかご存知か」


不意に風間は、挑発するように問い掛けた。養父は知った風に目を細めたが、私は首を横に振る。噂が立っていたことすら初耳である。
風間は私の反応に、どこか愉しそうな口調で続けた。


「陶器のような白い肌に艶やかな黒髪。そして深い紫苑の瞳だ、と」


深い紫苑。そんな風に見えるのだろうか、私の瞳は。確かに、養父やたまに会う他の人々は、綺麗な瞳だと誉めてくれた。しかし特別な力があるわけでもなんでもない。どちらかといえば、風間の赤い瞳の方が紅玉のようで美しい。が、風間はじっと私を見つめ、やはり小さく呟いた。


「噂も侮れぬな。美しい――紫苑だ」

「……それが、何か」

「昔、鬼の里で似たような文句の噂が出回ったのを知っているか?儚げな紫苑の瞳の女鬼――"東国の紫の上"と噂された姫君の噂だ」


紫の上というのは、源氏物語に出てくる女の名前だ。主人公である光源氏の妻、絶世の美女である紫の上。
昔、鬼の里で噂された姫君の噂を、鬼であることを隠し、人間として育った私が知る筈がない。しかし私の脳裏には、すぐに穏やかな笑みを湛えた一人の女性が浮かび上がった。
――温かな紫苑の瞳。紫の上の異名に負けず美しい姫。私に似ているようで、私の真似ることのかなわない美しい表情の女。


「もっとも、会ったことはない。話を聞いたのもとうに東国の鬼の里――雪村家が滅んだあとだったからな。紫の上と噂された雪村の長子の行方は未だに知れないという。ただ、お前の噂を聞いたときに思い出した」


風間の瞳に射竦められ、私は蛇に睨まれた蛙のように身動きひとつ取れない。ただ、もう遠い昔に亡くなった母の顔が鮮やかに蘇る。紫の上に相応しい、美しい母の姿が。


「血は争えぬな。その紫苑の瞳、隠しようのない強い鬼の力、お前は雪村の姫で間違いない」


否定できなかった。開いた口からは、言葉にならない音だけが漏れる。


「この話はお前にとっても悪い話じゃない筈だ。人間と鬼は、分かり合えぬ。それにいつまでも赤の他人である勝殿に養われて、心苦しくない筈がない。鬼は鬼の里で暮らすのが道理だ」

「…餓鬼に心配されるほど、俺ァ、生活に困っちゃいねぇさ。千夜一人養うだけの力はある」

「力とか金だけの問題ではない。俺のような輩や…羅刹もまだ排除しきれていない。現に、先程は俺がいなかったら危なかっただろう」

「――羅刹?」


不意に飛び込んできた聞き覚えのない単語に、養父は眉を寄せる。風間はすぐに、嗚呼と溜め息を吐く。その間は、羅刹とやらが厄介なものなのだと理解するには十分なものだった。


「江戸の者は知らぬか。鬼の真似をした、ただの愚か者だよ」


――知らないことが多すぎる。
母上のこと、戦のこと、そして私が襲われた羅刹というあの化け物。私は総てにおいて無知だ。そしてこの鬼はその総てを知っている。
西国の鬼の頭領、風間千景。私を娶りに来た鬼。そして、鬼の事情に詳しい男。


「…義父さま、席を外して頂けますか?」


考える前に、口に出していた。
私の言葉に驚いたようにして、養父は目を見開く。相手は得体の知れない、しかも私を攫いにきた鬼だ。何をされてもおかしくない。危険だと養父の目は言っていた。わかっている。しかし、私はどうしても彼に彼から知識を得なければならない。このまま、知らぬ振りをして暮らせなどしない。


「させて下さい。この方と二人で、鬼同士の話を」


鬼として生きるか、人間として死ぬか。今漸く選択する時が来たのだと感じていた。



090415



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