私に散れと申すのか


驚愕よりも恐怖の方が上回っていた。
開け放たれた襖、立ちふさがる鬼。私を射竦める、血のように赤い瞳。見知った、なんてものではない。金色の髪に縁取られたその美貌は他でもない、私の夫のものだ。


「千夜」


私の唇から幽かに漏れた声に応えるようにして、千景は私を呼ぶ。声色に僅かに混じる、甘い響きを感じて心臓が跳ねた。
同時に、この場からの逃走を考えた。咄嗟に視線を走らせ退路を探す。しかし上手く身体に力は入らず、千景にも隙はなく、結局掠れた声を上げるしかなかった。


「どうして、ここに」

「妻が出て行ったきり、中々戻って来ない。故に、自ら迎えに来たまで」

「まだ約束の日までは随分、あるではないですか…!」

「夫が妻に会いたいという気持ちが咎められる筋合いは、無いだろう」


動揺を面白がるようにして、千景は口角を上げた。我が夫ながら、なんて酷い人なのだろうか。妻が蒼白で訴えている姿を見て、愉快そうに笑うだなんて。
千景が私に会いにきてくれた、それは嬉しいことである。しかし、間が悪い。どうしてこんな時に、と思わざるを得ない。
私の心情を知ってか知らずか、ゆっくりと千景は近づく。その姿は、猛禽類が獲を狩る様子に似ていた。


「義父上の邸でお前の愚弟に聞いて来てみれば、全く、本当に伏せっているとはな。あまり心配させるな」


薫は無事、勝邸に伝達してくれたらしい。ほんの少し安堵する。邸の方は問題なさそうだ。
私の前に膝を付いた彼に、ゆるゆると頬を撫でられる。労るような動作なのに、追い詰められているように感じるのは彼の表情のせいだろうか。


―――と、夫の向こう側に立ち尽くす姿を見つけて再び硬直しかけた。



「あの…一体、二人はどのような…?」


千鶴だ。千景の出現にすっかり動揺し、彼女のことが頭から抜けてしまっていた。私は、千鶴に何も伝えていないことを思い出し慌てる。千景のことも、雪村のことも、鬼のことも。彼女は何も知らない。

(何と言えば…)

何から説明すれば、ではない。ただこの場をなんとかやり過ごしたかった。私は千鶴を、巻き込むつもりは毛頭ないのだ。
久々に言葉を交わした千鶴に絆されて、つい千景への悩みを打ち明けてしまったことも、間違いだったのかもしれない。あの時、千鶴の制止を振り切ってでも、勝邸に帰っていれば…。

千景は、私と彼女の様子から状況を読み取ったようだった。すっと目を細め、私をじっと見つめる。


「千夜、この娘に何も話していないのか?」

「……」

「話さずに済むと思ったのか」

「…必要、ありませんから。私が今更、彼女の人生に介入するなどあってはならない事です」


どことなく不満げに、千景は息を吐いた。
が、理は私の方にある。そもそも、私が風間家へ嫁ぐ際の第一条件は、千鶴を鬼から守ることなのだ。当然千景も覚えているだろうし、破ることもないだろう。


「お前が話さぬつもりなら、それで良い」


それでも、理由くらいは追求されるのではないか。身構えていた私は、千景があっさりと視線を外したことを意外に思いながらも、ほっと息を吐く。
しかしそれは、ほんの一瞬の安堵に過ぎなかった。千景は、すぐにくるりと背後を振り返ったのである。


「雪村千鶴。俺がお前に、全てを話してやろう」


えっ、と身体を震わせたのは、黙っていた千鶴だ。突然の出来事に、ついてこれなかったのだろう。声も上げないままに、私と千景の顔色を交互に伺う。
反対に、今度は私が言葉を失った。どうして、なぜ、と尋ねる前にまず夫の暴挙を阻止せねばと、彼に掴みかかる。しかし易々と、片手で動きを封じられた。


そしてそのまま、千景がそれを告げるのをただ見守るしかできなかったのだ。



「知りたいだろう?我が妻、そしてお前の姉である千夜のことを」



120309



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