理想との差に藻掻く


冷えた手が額に触れた。
火照った顔に当てられたそれが心地くて、私は目を覚ます。誘われるようにゆっくりと瞼を開くと、傍らには手拭いを絞る女性。一瞬、母の面影に被る。けれど彼女の幼い風貌に、ぼんやりとその正体を理解した。


「ちづ―――」


声をあげかけて、ようやく完全に意識が覚醒する。我に返り口を噤むと彼女、千鶴は振り返り、息を吐いた。


「良かった、目が覚めたんですね」

「ここは…」

「覚えていませんか?意識を失ったあなたを、お連れの方が背負われてここまで来たんです。私、医師の真似事をしていて、少しですけれど応急処置をさせてもらいました」


体を起こした私の横に、きっちり正座をした彼女は紛れもなく私の従姉妹だ。ずっと会いたかった、生き別れの義妹。この江戸に来てから、何度となく遠目から眺めた姿がすぐ側にある。

(倒れた私を、薫が連れてきたんだわ)

記憶の端に、薫に背負われた覚えがうっすらと残っていた。私が倒れた時、恐らく勝の屋敷よりもこちらの方が近いと判断したのだろう。薫は、驚き慌てた筈。悪いことをしてしまった。

(でもまさか、こんな形で再会するなんて…)

義妹の顔を見つめながら、心中は複雑だった。幸い、彼女は私のことを覚えていないようで安心する。このまま他人の振りを通そう。名乗ることは簡単だけれど、それは双方にとって、良い結果を生むとは限らないのだ。


「雪村先生、ですよね」

「私のこと、ご存知だったのですか?えっと…」

「千夜とお呼び下さい」


微笑み、名乗ると千鶴もはにかんだ表情を浮かべた。
美しく育ったと、改めて感じた。薫と千鶴は似ていると思っていたが、こうして見ると千鶴の方が断然女性的である。
千鶴は慣れた手つきで私の熱を計る。噂で聞いた通り、一人で立派に生計を立てられているようだ。


「…御迷惑をお掛けしました。連れの者を呼んでくださいますか?家に連絡がとれれば迎えも来ますし、すぐにお暇します」


元々会うつもりはなかった。こうして近くで彼女の成長を感じただけで、満足である。千鶴の今の生活を、かき乱したくはない。すぐに去ろう。
しかし私がそれを告げた途端、千鶴の顔が曇った。予想外の反応に目を瞬かせると、彼女は躊躇いがちに、しかしはっきりと提案した。


「あのっ今日はここにいてくださいませんかっ」


突然の申し出に、思わずきょとんとしてしまう。すると、千鶴は顔を赤くして、目を泳がせながら続ける。


「えっと、その、あまり動かない方がいいですし検査とかさせていただければ、と」

しどろもどろになりながら、言葉を紡ぐ千鶴は必死に見える。説得するように重ねられた手は、彼女の両手に挟まれてぎゅう、と強く握り締められた。

――ひょっとしたら、寂しい、のかもしれない。

力の込められた彼女の両手は、僅かながら震えている。私は、はっとさせられた。
そうだ。彼女は美しく強く育ったけれども、一人の少女に過ぎないのだ。件の動乱では親しい仲間を失い、心はひどく傷ついていたのだ。
江戸に着き、千鶴を目にしてから。私は勝手に高をくくり、彼女は大丈夫だろうと決めつけた。それはきっと、千鶴から逃げる口実が欲しかったからで、名乗り出すのが怖いからだ。

けれども、雪村の生き残りとしてや、若紫鬼としてではなく。ただの千夜として、千鶴と接するのであれば、それは相互にとって良い関係になれるのかもしれない。

(だからといって、千鶴を鬼の世界へは近づけさせないけれど)

少なくとも今夜、彼女の言葉に甘えるくらいは許されるだろう。


「では、お邪魔しますね」


千鶴の手を包み返すように、私はもう一方の手を重ねる。彼女は、安堵したように破顔した。


*


私と同じく薫もまた、千鶴に名乗る気はないようだった。最も彼の場合は、合わせる顔がないといった体である。
近頃は和らいできたとはいえ、彼女への恨みや憎しみ逆恨みは簡単に拭えるものではなく、本人もきっと複雑な心境なのだろう。
布を頭から被り、顔を隠した薫に明日まで留まる旨を伝えた。勝邸への連絡も頼む。彼は翌日迎えにくると答え、千鶴の家を後にした。


「不思議です。千夜さんと居ると落ち着く気がします」


日が落ちかけた空を眺めながら、千鶴は呟いた。
薫が出ていってから、私と彼女は短い時間ながらも沢山話をした。といっても、些細な内容である。今年の冬が厳しかったこと、春の訪れを心待ちにしていること…。
しかし千鶴のその言葉には、どきりとさせられた。同時に心の奥底が疼く。互いに触れないでいた部分に、突然踏み込まれたかのような大胆な言葉に感じた。


「こんなに楽しいのは、久しぶり」


千鶴の声は、私に向けたものというよりは自然に出たものなのだろう。そして、その言葉に彼女の見えない闇を感じる。
千鶴の半生のことは、粗方聞いた。しかし、それはあくまで知識。私は、彼女がその過酷な運命の中で何を感じていたのかは知らない。


「千鶴さんは…」


口をついて出たのは、素朴な疑問。心に浮かんだのは、千景に対しての苦悩。


「本気で、人を愛したことがおありですか?」


我ながら、意地悪だ。彼女が家族も同然だった人たちを失っていることを知っていながらの、問いである。
それでも、聞きたいと思ってしまった。彼女の価値観を。そして答えを出すべきだと思った。私と千景との関係について。


「ええ……あります」


ややあって、ふわりと彼女は柔らかく笑む。その顔は穏やかで、けれども僅かな切なさを宿していた。


120207




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