紅指し指で一掬い 床に突いた指、下げた頭。千景は私を見下ろして気難しい表情を浮かべる。 「どうか、お許しを」 敢えて堅い口調で返答を迫る。彼がその案件に否定的であることは、察せられた。しかも、今は機嫌が悪い。 この頃の慌ただしさの中で彼がくつろげるのは、晩酌の時くらいだ。今晩もほどほどにお酒が回り、そろそろ寝所に、という間合いでの私の申し出だった。千景は、夫婦間に鬼としての事情や利害を持ち出すことを嫌った。更には私が堅い口調で決断を迫る今の状況を、良く思っている筈がない。 第一、家に――東京に帰りたい、それは私のわがままでしかないのだ。 「何の用意もせずに、嫁いでしまったのですもの。一端東京に帰らなければ、義父さまにも申し訳がたちません」 簡潔に、明瞭に。理由を述べるが千景は相槌ひとつ打たない。少々威圧的な目を向けただけである。 「…それに、」 この夫は、それが私の建て前であると見抜いているのだろう。それならば、と本音を漏らす。 「正体を明かすつもりはないのです。けれど一目千鶴に、会いたいの」 彼の反応は、予想通りのものだった。眉を顰め、睨みを強める。ややあって、唇を開く。 「俺には、お前がそこまで肉親に拘る気持ちを理解しきれん。しかし、お前が言い出したらきかない女だということは、心得ている」 ――だが。 重い息を吐いて続けた。 「東京までは遠い。また、既に人間どもは新しい世の中を確立しだしている。開国直後のように、混乱に乗じて物事を乗り切るのは難しい」 人間の町に出ることすら制限されている今だ。ましてや、東京など。一々説明されなくとも、それは承知していることである。けれど、それでも今いかねばと私は強く願っている。易々と引き下がるつもりはない。千景もそれを感じてか、理論的にその不可能を説こうとした。 「俺は同行できない。もちろん天霧も、だ」 追い討ちをかけるような言葉。ついでに言えば、不知火も千姫も既に各々里へ帰ってしまっている。頭の堅い家老たちや、信用の置けない鬼を同行させるわけにはいかない。 しかし私も考えなしではない。 「薫を連れていこうと思います。それでは、駄目かしら」 「…俺はあいつを、完全に信用はしていない」 「大丈夫です。薫は私の弟。何も起きないし起こさせはしない。千夜の名において保証します」 千夜の名は風間家頭領の妻、そして雪村頭領としての重みを持つ。私がこういえば、千景であっても無碍にはできないのだ。 彼は不満げに口を閉じる。どうやら、折れたらしかった。安堵する、けれど同時に申し訳なくも思う。誇り高い彼が妻に言い負かされるなど、気分が良い筈がない。私は、とりなすように言葉を重ねた。 「誓うわ。私は必ず、ここへ――あなたの所へと帰ってくると」 千景は、婚姻時の言葉通りに私を愛してくれている。亭主関白的な態度の中に見え隠れする配慮からも、それは感じられた。 頑なに心を開かない私に怒りもせず薄く笑って、彼は優しく私を抱く。すぐに心も手に入れると囁く千景には、余裕さえ見える。 (違う、私は彼を拒みたいのではない。本当の私の心を知られたら、幻滅されそうでこわいのだ) 東京へ行きたい理由、千鶴に会いたいという想い。千景には言わなかったが、そこには紛れもなく私情が絡んでいた。 (――千景ははじめ、千鶴を嫁にと望んでいたらしい) 婚姻の後に知った。 彼が戦乱の最中にある女鬼に執心していたことは、風間家の中では知れた噂だったらしい。けれど幸いにも相手の出自は不明だったようで、千鶴の存在が公になることはなかったのだ。そのうちに、私との婚約。家中の鬼たちは、私が件の女鬼であると思いこんでいる。天霧、不知火、千姫のいずれにも確認済みだ。 (千鶴…) もう何年も会っていない、従姉妹を想う。美しく育ったという。薫を見ればそれは明らかだ。 私は時折、まだ見ぬ千鶴に思いを馳せ郷愁にふけっていた。けれど近頃は、彼女を案じる程、どこかちりちりとした苦い痛みを、心に感じてしまう。 (醜い、嫉妬なのかもしれない) 気づいている。私はどうしようもなく、千景に惹かれている。夫となった美しい鬼に、焦がれている。彼は愛してくれている。私は彼の妻である。 ――だというのに。千景が一時でも千鶴を妻に望んだという事実に、私は焦りを感じているのだ。 (千鶴は、どんな子なのだろうか) 私は彼女のことを何も知らない。 (――会いたい) 決して、嫉妬心からではなかった。確かに私は、千鶴を羨んでいる。私の知らない彼の姿を知り、また一度は求められた、本当の雪村の姫を。千景が欲した一点の曇りもないその血を。 けれど、羨望より好奇心が先立った。彼女はどのような女性なのか。どんな世界を見てきたのか。 ただ一目会えば、知ることができるのではないか。私が誰を守ろうとしているかを。そして。 (私が、千景にどのように接すればいいのかを) ――そう、私は。 夫婦になった今も、つれない態度を取ってしまう自分に参っているのだ。 111222 妻である前に、ひとりの女なのです |