若紫鬼


「皆に、伝えるべきことがある」


千景の静かな声が響く。婚儀の席での予定外の行動。会場に居る全ての鬼が、目を見張って彼の動向を窺う。それは私も同じで、隣の夫をただ見上げていた。


「まずは、礼を。
よくこの婚儀へ――風間の里へ、来てくれた」


その言葉と共に、宴席の端へ座した鬼たちへ注目が集まる。皆、他の里より頭首代理として参ったものたちだ。声を掛けられた彼らは、慌てたように声にならない声をあげる。しかし千景は取り合うことなく、言葉を続けた。


「既に周知の事実であるが…我々鬼の血を受け継ぐ者は、今、過去最大の危機に直面している。そのような間の悪い時期に祝いの言葉を戴き、誠嬉しく思う」


祝いの席だというのに、彼は真剣な顔だった。笑みひとつ浮かべないその表情は、ただ参列者を労うためにこの場を設けたわけではないのだと、思わせた。他の鬼たちもそう感じたらしく、各々、何を言われるのだろうと顔を強ばらせていた。


「我が妻、千夜はあの"紫の上"の一人娘。雪村の名を継ぐ者だ」


前触れなく呼ばれた名に、心臓が跳ねる。


「この婚儀を決めた際、どれだけ噂になるだろうかと危惧した。風間が雪村を吸収し、血を強くしたと。だが、断っておく。千夜を娶ったのは雪村だからではない。真実、この女に惹かれて俺はこいつを妻と定めたのだ」


刹那、私へと視線が集まる。私は、赤くなる頬を隠すように俯いた。


「しかし、結果的にこの婚儀はが風間と雪村をひとつにすることになった。雪村の里が十数年前に崩壊した、それは若輩の俺よりも皆の方が良く知っていると思う」


雪村の名に時折、年長の鬼たちは苦い顔をする。それは同情か、あるいは後悔か。それぞれの鬼がどのように生き、何を背負ってきたのか私は知らない。けれどその力故、皆何かしらを抱えて生きてきたに違いない。
雪村の滅亡に、加担している者がいないとは限らない。でも私は、もうあえてそれを問い詰めようとは考えなかった。私が今ここに居る。それだけで当人には、恐怖に違いないのだから。


千景は一旦言葉を切り、鬼たちを見渡す。そして、決意を言い放った。



「俺は……風間は今後、人間界からの別離の道を選ぶ」



息を呑んだのは、誰だったのだろうか。幾度協議を重ねても、まとまりを見せなかった議題。千景が今この場で、里の方針を宣言した意味は大きい。
それはつまり。
風間と雪村の権威を持って、煮え切らない鬼たちの先陣をきるということ。風間が主導権を握るという宣言に他ならない。


「もし志を同じくする里があれば、協力関係――同盟を結びたいと考えている。鬼の血を守るには、それしかあるまい。皆がどう感じるかは、知らぬが」


淡々と続ける。千景の言葉に迷いは微塵もみられない。


「名を連ねると、覚悟を決めた者は申し出よ。風間は、それを受け入れると誓おう」


呆気に取られた面々は、次第に事態を理解すると苦渋の表情を浮かべる。中には今にも飛びかかってきそうな者もいた。だがそうならないのは、千景の放つ殺気が場を圧倒していたからである。
声無き呻きに彼は満足げに笑う。そして、ふと殺気を収め手を鳴らす。


「祝いの席に似つかわしくない話を失礼した。だがもう少々、付き合っていただく」


使用人の一人がやってきて、千景に何かを書き付けた巻物を手渡した。


「千夜」


紅い目が私を捉える。私は、弾け飛ぶように顔をあげて彼を見上げた。


「晴れて俺の妻となるお前に、ささやかながら贈り物をしたい」

「……」

「鬼でありながら人間として育ったお前に、鬼の名をやろう」


今度は私が、息を呑む番であった。
驚いて声もなく千景を見つめる。千景は柔らかく笑み、私に巻物を手渡す。震える手で封を切る。そこには。



「――若紫鬼」



綺麗な字で書かれたその名を、見つめる。千景の筆だ。彼に視線を移すと、彼は私を優しく眺めていた。

わかむらさき。
それは源氏物語の登場人物、紫の上の幼名。光源氏が彼女を見初めた時の名。


「お前の母の異名、紫の上から付けた。だが決して、お前が母親に劣る幼子のようだという意味ではない」


千景は、私だけでなくこの場の皆に聞かせるように、語る。


「お前にはそのままで居て欲しい、そう願った。成長した紫の上のように、世の不条理に嘆くことなく、そのままで。光源氏なんぞに汚されるなく、ただゆるゆると夢を見ていれば良い…俺の膝の上で、な」

「…千景」

「千夜。お前は俺の妻。名を呼ぶ権利も俺だけにある。これから皆には"若紫鬼"と呼ばせるがいい。美しい、鬼の名を」


頬を、滴が滑るのを感じて耐えきれずに頭を垂れた。風間の嫁らしい名を、と告げたその言外に含まれた感情に、私は気づいてしまったのだ。

鬼に産まれたことで全てを失った私は、鬼を憎み、鬼であることを厭うた。それでも既に定められた運命だったのだろうか、私は彼の妻となった。

新たな名は、新たな私。
気高い女鬼としての名前。
それまでの私ではない、幸福な、千景の妻の名前。

彼は私に名を与えることで、私に新たな生を与えてくれたのだ。これからは鬼を恐れる必要はない、彼の腕の中で穏やかに生きて良いという証を。
いつか思い描いた、真実幸せな家庭の所有権を。


「若紫鬼…我が妻よ」


頬に触れた指が強引に、私の顎を掬う。絡み付く視線。紅い瞳にとらわれた私。噛み付くような接吻を従順に受け入れる。
嫌な気はしない。むしろ不思議な安堵を感じながら。


ようやく、鬼となった。



111018



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -