終わりはもう、すぐそこにまで あの、暗く寂しい夜の山道で交わした母との約束を、決して忘れたわけではない。忘れられない。忘れるわけがない。言い聞かせるように繰り返した母の言葉は、呪いのように私の身体に染み込んでいる。 それに――この頃は、やけに母の姿を思い出した。私を苛むように夢枕に立つ母を、しかし私は見て見ぬふりをし、やり過ごす。 目を合わせてしまえば、私の決意が揺らぐような気がした。 母は私を責めているかもしれない、それを確かめる勇気もない。もしそうなのであれば、その理由は、わかりきっていたからである。 婚儀は、明日に迫っていた。 急な婚姻であったにも関わらず、日本各地に散らばった有力な一族の代表者は粗方、婚儀への参加を示したらしい。 「元々、奴らはこちら動向を探る為に使者を寄越していた。それが参列者に化けただけの事だ」 風間は言う。 使者と言っても、風間家ほど力を持つ里へ赴くのだ。その辺の家人ではなく、次期継承者のような地位を持った者が来ていた。だから、そのまま里の代表とすることができたのだと。 「お前ともあろう者が、怖じ気づいているのか?」 風間は面白いというような顔でこちらを覗き込み、意地悪く唇を三日月に歪めた。 「俺に正面から意見する女も、そうして汐らしくしていると仔兎のごとくだな」 仔兎。 自分ではそんなつもりは微塵もなかったが、風間には私がか弱い草食動物に見えているらしい。なにも警戒心の塊のような兎を選ばなくても良いのにと、風間を睨みつけるが、自分の弱い部分を見つけられたように感じて嫌気が差した。それを愉しそうに嗤う風間を例えるならば、猛獣というより妖魔の類に近いだろう。 けれども彼は、不意に真面目な顔で囁く。 「心配せずとも、お前に危害は加えさせない。もしそんな不敬を働く輩がいれば、一族をあげて滅してやろう」 …それほどまでに、不安気に見えるのだろうか。私はそんなに、弱くはなかった筈なのに。 「大丈夫、大丈夫です。貴方を信じていますから」 これ以上見つめられたら、心の全てを見透かされてしまいそうだ。弱い心を隠すように、傍らの袖を引いた。まるで、恋人――心の通じ合った、本当の恋人同士のように私は彼に寄り添う。彼もまんざらでもなさそうに笑むものだから、私は錯覚しそうになるのだ。 (本当だったら良いのに) 心に浮かんだその一言は、私の本音。悔しいけれど、私は、この男に惹かれていた。今でははっきりと、自覚している。 それが恋なのか愛なのかは、わからない。でも、嫌いではないのだ。この男を親しく、感じているのだ。 重ねる手を、交わす眼差しを、まやかしの夫婦ごっこだと嘲笑しながら、心の底ではその事実に傷つく。 風間千景は、鬼の頭首。再び鬼の私を目覚めさせた張本人だ。本来は、忌むべき相手なのかもしれない。憎しみを感じても、おかしくない。だというのに、心は理性に従わないのだ。 (私が素直になれば、彼は愛してくれるかもしれない。本当の夫婦になれるのかもしれない) 風間は私を、愛しているのだと言った。女鬼であるこの身体だけでなく、私の心が欲しいのだと言った。 彼の熱い眼差しに心臓が震えた。彼に身を委ねてしまいたいと、切望した。けれど、邪魔をするのは、母との約束。 ――千夜、決して子を成しては成りませぬ。 私は雪村を、千鶴を守るために約束を反古にしたのだ。そのことに後悔はない。覚悟をしていたことだから。 でも、自分の幸せを願うのは贅沢ではないか。約束を反古にした自分に、風間と結ばれて幸せになる資格などないのではないのか…。 「お前は美しい女鬼だ。各地からやってきた鬼どもは、きっと目を奪われる。亡き紫の上もお前を誇りに思うだろう」 「――母は、 私の婚姻を喜ばないでしょう。約束を破ることになりますから」 「約束?」 「生涯独り身を貫き、子を成さないという約束です」 風間は全てを知っている。私の生い立ちや、母の最期を。だから、彼が私の言葉を否定するとは思ってもみなかった。 「それは、違うな」 「…なぜ?」 「母というものは、子供の幸せを願うもの。――鬼なんて腐ったような輩ばかりだが、少なくともお前の母は誇り高い女であった筈だ」 確かに、彼のいう通りだ。母は誇り高い鬼であり、女であった。けれどもあの約束だけは、違うのである。母は私の為に、人間としての生を与えてくれた。鬼とは無縁に育ててくれた。私は、その想いを裏切ったのだ。 けれども風間は、私の心を知ってか知らずか、呟いた。 「自分の母親を、信じてやらないのか?」 * その夜、夢を見た。 幼い私は母の膝に座り、母は私の髪を優しく梳く。離れで穏やかに過ごしていた頃のようだった。愛しむような眼差し、柔らかな手つき。母は美しい人だった。女として、母として、私の及ばぬ素晴らしい人だった。東国の紫の上は間違いなく、気高く優美な女鬼であった。 私は夢を見ながら、これが夢だと理解していた。そして私は彼女に問わねばならない。 「母さま、私…彼の隣に立ちたいのです」 言って、私は怖々と母を見上げた。母は怒るだろうか。悲しむだろうか。間違いを犯した幼子のように、母の叱責を怖れるように、彼女を見る。でも。 ――千夜、幸せにおなりなさい 聞こえたのは、透き通るような声。彼女の唇は呪いではなく祝福を謳う。途端に光が溢れ、夢の終わりを告げる。 このとき私はようやく、気づいたのだ。母が私に施したものは、呪いなんてものではない。深い、愛情であったと。 110928 |