痛くて、辛くて、嬉しくて


昔、姉と呼んでいた女人が居た。
まだ幼い時分の記憶なので、その姿形を鮮明に覚えてはいない。けれども、ふとした時に蘇える優しい声色だけは忘れたことはなかった。

今になって考えてみれば、あの時が自分の人生の中で一番、幸せな時期だったのかもしれない。両親は頼もしく、妹は愛らしく、そして"姉"は誰よりも自分を理解してくれていた。思えば昔から、女鬼であることから妹は、特別待遇であったような気がする。本来後継ぎである彼には、いつも妹に比べて期待が薄いように感じられた。良く似た双子である為に、妹に間違われたことも幾度もあった。

(けれども、姉だけはいつも俺をみてくれた)

一度も違えることなく、彼と妹を見分けた。だから姉が好きだった。だから、いずれは自分が彼女を守りたいと思っていた。しかし里が焼けた後、彼女はずっと行方知れずだった。もうこの世には居ないのかもしれぬと、諦めてさえいた。

――その"姉"の行方が知れたのは、彼が全てを失った後。裏切られたとさえ感じたのだ。
彼女は雪村正統後継者を名乗り、風間家に嫁ぐと聞いたのだから。




風間の里は、京より南に位置する南雲の里より、さらに南にある。
のちに幕末と呼ばれる動乱の収まった昨今、抜け殻のように京の町に潜んでいた彼は、殆ど憎しみと疑心の塊になりながら、ただ一人気力のみでここまでやってきた。他の鬼の里になど、来たことはない。風間家頭首は京でちらりと目にしたが、あの傲慢な彼からは想像できない落ち着いた様子の里であった。

(どこか、雪村の里に似ているかもしれない)

僅かに湧き上がる郷愁の念を、かれは来た目的を思い返し、即座に打ち消す。

幼い頃に知らなかった"姉"のことは、南雲の里で嫌という程聞かされた。
東国の紫の上、そして良く似たその一人娘。南雲家ではかの紫の上程、憎まれた名はなかった。聞いた話では、当時の南雲家頭首は紫の上に婚約を反故されたらしい。そして、雪村の里が襲われた際に保護を申し出たにも関わらず、娘と共に自死を望んだという。
彼は、南雲家の者を端から信用していない。だからこの話もどこまで真実か疑わしかった。けれども頭首は死ぬその時まで口癖のように言った。――紫の上は、穢らわしい女だと。

そもそも女鬼に、まともな女が居るとは思っていない。数が少なく稀少というだけで、特別待遇される彼女たちは、綺麗に着飾るその顔の裏で一族の富や権力を思うがままに操っている、彼にはそんな風に思えて仕方がなかった。

それでも、信じていたのだ。
彼女だけは、姉だけは、女鬼である誇りを持ち続けているのではないかと。

(彼女は、幕府に守られのうのうと暮らしていたらしい)

それを聞いた時、彼の胸にはどす黒い憎しみが沸き上がった。自分があんなにも苦労したあの時、彼女は屋敷で大切にされていた。あの妹でさえ戦乱に巻き込まれたのにも関わらず、彼女はその苦しみをしらないのだ。そして今更のように、雪村に舞い戻った。その血筋を両親し、有力一族の風間家へ取り入ったというのだ。

(殺してやる)

妹にしてやったように、いたぶる余裕なんてない。ひと思いにこの手で。それがせめてもの情けだと思った。

南雲家頭首を名乗り風間家へ乗り込む。彼は頭を垂れながら、懐の短剣に手を触れる。

(一体どんな幸福面で現れるだろうか)

憎しみと恋しさが入り混じる。彼は指先に殺意を込める。


「千夜様をお連れしました」


面を上げるように声を掛けられ、彼は、噂の女鬼を見上げる。憎しみを短剣に載せ、すぐにでも切りかかろうと思いながら。
しかし―――


「薫ッ………!」


彼の顔を見た途端、彼女――千夜は裾が乱れるのも気にせずに駆け寄ってきた。夢の中で何度となく繰り返した声に、思い出のそのまま名を呼ばれ、一瞬怯む。


「あ…」

「よくぞ、よくぞ生きていました…!」


千夜は、美しい鬼だった。流れる黒髪に濡れた紫苑の瞳。これが恋い焦がれた姉かと、思わず身を強ばらせた彼を千夜は躊躇うことなく抱き寄せる。
触れた彼女の身体はとても柔らかく、そして脆く感じた。彼女も鬼である筈なのに、短剣を突き立てたらすぐに壊れてしまうのではないかと思わせられた。こんなに小さな、こんなに頼りない身体に、幼い自分は守られていたのだ。
憎い筈なのに、裏切られたのに、終わらせなければならないのに……。


「姉上ッ…」


暖かい彼女の腕に包まれた途端、涙が溢れる。それはもう、彼――南雲薫の意志では止めることは、できなかった。



110608




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