名を呼ぶのは誰人や 昔からどうしても、血の匂いにだけは慣れることができなかった。後に幕末と云われるこの時代に生まれて血に酔うだなんて、生きていくのに不便としか言いようがない。その上私の産まれの事情が事情であるため、養父は私を強くせねばならないと決めたらしい。引き取られてすぐに私は、一通りの武術、護身術、剣術を学んだ。それから、嗜みとしての舞や琴、生け花なんかも。さらに世を渡るためと学問もかじった。 話を戻そう。兎に角、私は一人で生きていくのに充分過ぎる知識は得ることができた。しかし、血にだけはいつまで経っても慣れることができなかったのだ。身体は弱くない。寧ろ普通の人間より大分丈夫に出来ている。私自身、血を流してもすぐに傷は塞がり、痛みも少ない。それなのに血が苦手なのは、私の過去、母を亡くしたあの出来事が原因なのではないか。その記憶を意識下から消し去りたいがために血を嫌うのだろう。 養父はそう結論づけた。 「千夜、お前は強い女だ。身体だけではなく、心もな。だから少し弱点があっても誰も責めはせん」 彼は持ち前の明るさで豪快に笑い、それから私に顔を近づけて「しかし、」と声を潜めた。 「ただな、今の江戸は危険だ。いくら強いからといって、自ら死に飛び込んでゆく馬鹿な真似はするな。お前は俺の娘らしく、大人しく屋敷にいなさい。お前の母が言い残したように、いつか厄介なことに巻き込まれるかもしれない。その時までは、ひっそりと力を温存しておくのが賢い者のやり方だ」 それは幾度となく繰り返された言葉で、私はいつも「はい」と素直に頷いてそれに従った。今の生活に何の不便もしていないし、その通りだと思ったから。 詰まるところ、常日頃注意されておきながらも、私は用心することを怠った。油断していたのだ。先日、いつ戦が始まるかと緊迫した雰囲気だった江戸城が、突如無血開城をした。幕府は倒れ、全ては新政府へと託された。 ここ最近ピリピリしていた雰囲気もすっかり賑やかな元の江戸に戻り、戦が終わったと気を緩めた私は久々に街に出向いたのだ。出掛けたのは昼過ぎの多く人のいる時間帯で、すぐ帰るから心配はないと護衛もつけなかった。しかし、ちょっと素敵な簪に目を取られている間に雨が降り出したのだ。傘がない私は、雨宿りを嫌い小走りで屋敷を目指した。 (近道をしよう) 思い至ったのは、走り出してすぐのこと。まだ五分と経っていないのに、お気に入りの藤色の小袖は既に水気を含み重みを増している。近道とは、民間人しか知らないような裏道を使う帰路だ。普段、一人での使用は養父に固く禁じられていた。 (でも大丈夫だわ、すぐだもの) これ以上雨に濡れるわけにもいかないと、私は小路へと足を進めた。 それが間違いだったと気づいた時にはもう遅かった。もの音がして、目を向けた先には三人ばかりの浪士と思われる男何かを取り囲むようにしていた。雨と暗がりのせいで何をしているのかよくわからない。私は不信に思って目を向けた。 ――刀で何かを刻んでいる、それがかつて人間だった肉片だと理解した時には、既に私の鼻を血の匂いが掠めていた。 「…!」 血の匂いで麻痺した身体を引きずるようにその場を離れようとした。しかしその刹那、男の一人が私に目を向けた。彼らはどこか獣じみた表情で、赤く濡らした顔をにたり、と歪める。それは獲物を見つけた化け物そのものの顔。今行動しなければやられる。そう分かっているのにも関わらず、私の身体は動かなかった。血に、震えていた。 (どうしよう、) 無理して闘おうか。すぐには殺されない。私の、生まれもった力をもってすればあっと言う間に形成逆転するだろうに、それすらも、震えた身体が邪魔をする。もうだめかもしれない。男たちは私の前にゆらりと立ち、狂気にみちた目で刀を振り上げた。私は祈るように目を瞑る。ああ、私は、なんて情けない。 しかし次の瞬間、断末魔の声を上げていたのは男たちであった。はっと目を見開くと、既に事切れた死体が転がっていた。何が起きたのだ、と硬直した私の背後から、低い声がたしなめるような調子で響いた。 「されるがままとは、情けない。それにまたもや偽物…雪村の血筋は偽物に好かれるのが得意なようだな」 ――何故、私の旧姓を知っているのか。一体何者なのか。 私は力を振り絞って背後に目を向ける。薄れゆく意識のなか私が見たのは、美しい、金色の鬼だった。 それが私の生涯の伴侶になる男だと、誰が予想しただろう。 090313 |