黄昏を迎えに




江戸を発ち、いかに自分が平和で恵まれた暮らしをしていたかを思い知らされた。思えば、険しい山道を歩いたのも結局は母と江戸に逃げたあの夜限り。私は生まれた時は里の離れ、江戸へ来てからは養父の屋敷の内でぬくぬくと育てられてきたのである。恥ずかしいことに、野宿もこうした遠出でさえ初めてなのだ。養父の下で一通り武術は習っていたため体力はあると思っていたが、それもどうやら勘違いであるらしい。


(…まさに、井の中の蛙ですね)


天霧や不知火は常に気を掛けてくれる。だから心配はなかったが、物を知らない自分を情けなく思う。
道中は、私にとって目新しいものばかりだった。都市から外れた村々は困窮し、戦火に巻き込まれた地には人が戻らない。幕府が転覆するにまで至った今回の戦は、開国という希望の裏に簡単に解決できない多くの問題を残した。そうしたことは話には聞いていたけれど、実際目にするのとでは印象はかなり違った。
これから人間は、新たな国作りに奔走するのだろう。豊かな、平穏な暮らしを手にするために。


(私は、どうするべきなのだろう)


鬼と人。同じ容姿でありながらも、本質は全く違う者同士。私はまだ、自分の身の振り方を決めていない。




――それでも、来てしまった。
遂に、鬼の里まで。




「千夜様、ここからは少し険しい山道を行きます。顔色があまりよろしくないようですが大丈夫ですか?」

「…ええ、大丈夫です」

「あんま無理すんなよ。もう半日位で着くんだから、疲れてるなら休んでもいいんだぜ」

「匡、違うの。疲れているのではなく、ただ」


ただ、怖い。
鬼の里を目前にして、胸の奥がざわついた。私の知っている唯一里、雪村の地を思い出し冷や汗が背筋を伝う。ここは雪村ではない。全く違う地だ。そうわかっている筈なのに。


「――大丈夫、覚悟はできているわ」


心配そうな二人に声をかけて、私は先を促した。ここで立ち止まってはいけない。私は、過去を克服しなければ、ならないのだ。






山道を、半日かけて奥へ奥へと入ってゆく。本当に里なんてあるのだろうか。そう思ってしまう位、人里離れた奥地に風間の里はあった。


(ここが)


突然開けた地に、私は驚きに言葉を失った。


(…なんて、美しい場所)


豊かな水、降り注ぐ暖かな日光。畑は、自分たちが必要な分を賄うためだけにあるのだろう。全くの無駄がない。質素だけれど、落ち着き整った里である。


(地形も気候も全く違うのに、どこか雰囲気が似ている、気がする)


かつての故郷の風景と重なった。
ぼんやりとした記憶にしか残っていない故郷、けれど同じ鬼だからだろか。どこか懐かしい。


その里の入り口。大きな木の幹に身体を預けるように寄りかかって、彼は待っていた。


「…風間様」


私の呟きが届いたのか、風間はこちらに目を向ける。赤い紅玉のように美しい瞳が私を映す。
何か言おうと思った。里へ招いてくれた謝の言葉か、再会の挨拶か。しかしどれも言葉にならない。喉が詰まったように、私の口からは掠れた吐息しか出ない。
風間はふと、私から視線を移した。そして顔をしかめる。


「何故、不知火がいる」

「道中、私だけでは何かあった時に対応できませんので。それに、不知火家としても、風間家の動向を知りたいと聞きました」

「そういうことだ。風間家の今後の予定とやら、教えてもらうぜ。お前の所も、雲隠れするんだろ?」


三人は、暫く行動を共にしていたと聞いた。てっきり友人のような関係かと思っていたのだが、違うらしい。どちらかといえば利害関係にあるようだ。不知火と天霧の言葉に、風間は少し考える風に黙る。


「…いいだろう、上がれ」


風間は短く言い、そして、天霧に不知火を客間に案内するように命じた。天霧はすぐに、不知火と連れ立って歩き出す。


(…あ、あれ?)


私もそれに従うべきか、と一歩踏み出そうとしたのだが、しかし何故か、思うように足は動かない。まるで鉛にでもなってしまったかのように、重い。
突然のことに困惑していると、じっとこちらを見つめていた風間は、ゆっくり私の元へ近づいた。


「――千夜」


囁くように名を呼ばれ、胸の奥が疼いた。はい、と小さく返信をすると、目の前まで迫った風間は僅かに口元を緩めた。


「良く参ったな」

「お招き、感謝しております」

「待ちくたびれた」


風間は、私の手を取って緩やかに握る。決して高くない体温が、じわりと伝わった。


「ようこそ、我が風間の里へ」


僅かに微笑んだ風間に手を引かれた。引かれるままに私は歩きだす。…さっきまでの苦労が嘘のように、簡単に。


(ああ、そうか)


こっそり、風間の整った横顔を見つめて合点がいった。


(私、里に入るのが怖かったのね)


割り切ったつもりでも、私は心のどこかで里に、鬼に帰ることを恐れていた。それに身体が反応して、拒否反応をおこしたのだろう。そして、優しく繋がれた手は、私が里を恐れていることを察して、風間が差し伸べてくれたのだ。仏頂面からは想像できない、優しく暖かな手に私の緊張はいつの間にか解けていた。

私は、風間との再会にとても安堵していた。



090918



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