退路は無い 風間千景と名乗る鬼が去ってから、三日。 「千夜、大丈夫か?顔色があまりの良くない」 前触れなく、養父が私の部屋へとやってきた。幕府が倒れ、年号が明治に変わった。江戸が東京になった。激変する世の中の処理に養父は日々追われている筈だが…どうやら今日は、仕事をほったらかしてきたらしい。 わざわざそんな風にして養父が来てくれたのは、あれ以来部屋に籠もりきりの私を心配してのことである。 「心配かけてごめんなさい。身体はもう大丈夫よ。少し、血に当てられただけだもの」 事実、部屋に籠もっていたのは先日の風間との会見に、思うところがあったからだ。それでも尚心配そうな養父に、苦笑する。 「顔色が悪いのは、夢見が悪かったせいね」 「悪夢でもみたのか?」 「あの日の夢をみたわ」 とても鮮明な夢だった。母と里を出たときの夢だ。私のあの日の記憶はとても曖昧なものだったのだが、今朝方の夢は私の忘れていたことまでもを細やかに映し出していた。今では霧が晴れたようにはっきりとあの日のことを思い出せる。 夢を見たのは、風間が訪ねてきたことが原因なのだろう。しかし、不思議とそれだけではない気がしていた。 (幕府が倒れ、時代がひとつ終わった。政治の形だけではなく…何かが、変わったからかもしれない) 結局、私が話すばかりで全然風間の話は聞けなかったのだ。風間はきっと、私の知らない何か大切なことを知っている。ちらりと耳にした、羅刹、という言葉が気になった。 「なァ千夜や。風間とはどんな話をした」 養父が訪ねて着た本題はこれだろう。突如現れた鬼、彼との会話は、まだ養父に言っていなかった。無理やり聞き出さず、待っていてくれたことが嬉しかった。 「…私たちの知っていることは、思ったより少なかったみたいです。雪村の襲撃に関しても、知らなかったようで」 三日前、全てを聞き終えた風間は、少し考える風をして黙り込んだ。そして、静かに言った。 ――雪村の、真実を知りたくはないか。 私の僅かな知識を語ったにすぎない、独りよがりな独白。それだけだが、風間にも思うところがあったらしい。 ――俺は、知りたいと思う。今まで風間家がそれを把握していなかったことを、情けなく思う。お前は、真実を知る気はあるか。 そんなの、知りたいに決まっている。何故滅ぼされなければならなかったのか、何度も何度も考えた。復讐をしよう、とは思わなかったものの、結局雪村がどうなったのかはわからず仕舞いだったのだ。 ――では一度、俺の里へ来い。 風間はそう言った。 ――取って食いはせぬ。婚姻の話も後回しで構わぬ。ただ、お前には多く語るべきことがある。だから一度、里へ来ないか。 その時の私は、余程訝しげな顔をしていたのだろう。呆れたように風間は、ちょっとだけ顔を和らげた。 ――お前がまだ鬼としての誇りがあるのならば、雪村を名乗る気があるのならば、自分の目で状況を確かめ、それからどうするか決めれば良い。俺は、無理強いはしない。 それでもまだ決めかねている私に、返事はまた聞きに来ると風間は言った。それまでは存分に悩め、と。 ――お前を諦めるつもりもないが。 屋敷を去る時に告げられた言葉が、こそばゆかった。 鬼とはもう関わらないと、かつて、母を失った日に誓った。母は女鬼であること、雪村の者であることに苦しんだ。母が命を賭して今の人間と変わらぬ私の生活がある。それを捨てることに、躊躇いがないわけはない。 ただ、鬼を避け、雪村であることを否定しながら生きていくのは、逃げだと気づいていた。幕府が倒れ、時代は変わった。私も、変わらなければ、真実を知らなければならないのかもしれない。そう、思わされた。 「義父さま、お願いがあります。鬼の里へ行かせてください」 養父は動きを止めた。驚きに固まる彼に、本当に申し訳なく思う。私をここまで育ててくれたのは、彼だ。 「あの者に、嫁ぐ気か」 「いいえ…でも、私には確かめなければならないこと、知らねばならないことがあるのです」 嫁ぐ気はなかった。ただ、一度鬼に戻り、知らなければならない。もう、隠れているわけにはいかない。 「風間には悪いですが、彼を利用させてもらいます」 「千夜、」 「心配しないで下さい。きっと、大丈夫」 女は度胸。やると決めたら、腹をくくるしかない。気丈に笑った私の様子に安心したのか、ついに養父は「仕方ねぇな」と笑って了承してくれた。 090808 |