4 頬を両手に当てた”うっとり”のポーズで、まさにその通りうっとりと目をとろけさせる少年を前に、私は苦笑するしかなかった。 「我、こんな菓子ははじめてだ…!」 そのキラキラとした視線をまっすぐに向けられて、彼に件の”菓子”を献上した私は喜んでいいのかどうなのか、微妙なところである。しかし、菓子といっても、一口サイズの小包装のただのチョコレートだ。現代ではよくある既製品。たまたま私のポケットに入っていたそれで、ここまで喜んでもらえるだなんて思っても見なかったのが本音である。 ちなみに、チョコレートを彼が口にするまでには一悶着あったのだが、それは省く。最終的に、敏感にチョコレートの匂いをかぎ当てた九段くんの「食べてみたい」要求が通り、無事彼の口の中へチョコレートは消えていったのだった。 千代ちゃんもやや躊躇っていたものの、九段くんが目を輝かせた様子を見て、同じように口に含み、同じように目を輝かせている。 「やっぱり洋菓子は珍しい、のかな」 「そうですね。九段様は甘味が特別好きですが、やはりこのあたりでは京菓子が多いですから…帝都には洋菓子もたくさん普及しているという話ですが」 使用人のハルさんは、二人の子供を眺めながら答える。 あの後、九段くんが私を滞在させることを決めてからこのハルさんが、九段くんのご両親にその旨と了承を得てきていた。流石にずっと置いていくわけにはいかないし、私もそれは心苦しい。私の混乱が解けて、身辺が落ち着くまで、という条件で許してもらったのだ。そしてハルさんをその間のお世話係としてつけてくれたのである。恐れ多くも。 なにはともあれ、そんなこんなで私は九段くんにすっかり気に入られたようである。やはり、食べ物効果は高い。 「ところで宮本さん、ほとんど記憶がないとは、どの程度のことをいっているのでしょう」 そう問われ、私は今一度自分の記憶を探る。頭の中に、霞みが掛っているようで、わかりそうでわからないことをもどかしく感じる。 「自分が、別の場所から来たということはわかるんです。こことの違いとか、そのときの一般常識とか…でも、自分のことになると、とんとわからない」 説明は、簡単ではない。 「名前も――私は自分が、宮本椿だということは知っている。でもそれ以外が、ぼんやりとしていて…」 言葉にすればするほど、胡散臭くなる。自分でもそうなのだ、他人から見たらどう思われるか。それは明らかなような気がした。突然現われて、名前しかわからなくて、異世界から来ただなんて。不審人物でしかない。改めて総認識し、語尾が小さくなる。 「自分でも、不審だなって思うんです。でもどうして、このお屋敷の方々はそんな私を、信用してくれるのでしょう」 ハルさんは、私をじっと見つめた。そして少し考えるように目を伏せ、それから語り出した。 「この家は、とても古くからある、由緒ある一族が住まわれているのです」 ハルさんの言葉に、思わず九段くんを見る。大きな御屋敷、そして年相応の子供にしては風変わりな態度。そんな気はしていたが、やはりただのお家ではないらしい。 「表には出ない、ある使命を帯びた人々とでも言えばいいのでしょうか。わたくしの口から詳しくお話しするわけにはいきませんが、異世界から来た人、というのは彼らにとってはかなり重視すべきことなのですよ」 「……」 「それに、九段様はこのお屋敷の実質、当主なのです。まだ幼いから跡はお父上様が継いでおられますが…成人の暁には、九段様が名実共にこの萩尾家を率いていかれるでしょう。だから、九段様が決められたことは、基本的に受け入れられるのです」 まだきっと、私の知らないことはたくさんある。萩尾家のことも、この世界のことも、そして九段くんのことも。 (けれど、できることをやらないと) 多分だけれど、きっとだけれど、私はこの世界から帰ることが出来ないのだと思う。それならば、適応しなくては。何故かそう、強く思った。 「ごめんなさい…でも、よろしくお願いします」 「いえいえ。こちらこそ、椿さんにはきっとお世話になると思いますから」 「え?」 「椿!」 チョコレートを堪能しつくしたらしい九段くんが、くるりとこっちを向いていた。 「椿の世界のことを教えてくれぬか!前に読んだ本の記述には、異世界はこちらとは全く異なる文化が発展していると、あと、あと…!」 言葉が追いつかないといった様子で、九段くんはわたしに迫る。まさに好奇心の塊だ。きらきらとした顔で詰め寄られて、対応に困る。助けを求めるようにハルさんを見つめると、彼女は綺麗に微笑んだのだ。 「どうぞ暫くの間、九段様のお相手をお願いいたしますね」 「は、はあ…」 時は大正3年。異世界の、京。 それは帝都東京で未曾有の大災が起こるより、九年も前のことだった。 150814 |