その夜は、とても綺麗な月が昇っていたように思う。

けれども、何か特別な予兆があったわけではなかった。後から「そういえば」と思うことはあっても、ただそれだけだ。実際私は、いつもと変わらないように朝、九段くんを起こし、送り出し、そして家事や諸々を済ませた。いつもと違うことといったら、帰りが遅くなるので夕飯はいらないと九段くんから連絡があったことくらいである。彼が、食事を外で取ることは珍しい。いや、外で物を食べてくるのはしょっちゅうだけれど、それでも帰ってきて、いつも私に料理を強請るから。
午後の買い物では街で有馬さん、片霧さんとばったり合った。立ち話もそこそこに帰宅し、久しぶりにその日はハルさんが少し軍邸に長居し、お喋りしながら一緒に夕食を取った。その後は、九段くんのいないお屋敷を、広いなあと思いながら部屋に戻った。
そして、寝る前に、月が綺麗だなあと思ったのだ。

私がその夜に起きたことを知ったのは、翌日の昼過ぎだった。




「ふぅ、久々に徹夜してしまった……締め切り前の村雨はこんな気分なんだな」

「あら、そうだったの。一度眠る?」

「いや、それよりも何か食事を作ってくれ。今、我は椿の手料理が食べたい」

「ふふ、私の料理でよければ、いつでも作るよ」


ふらふらしながらも、九段くんはお昼頃に帰ってきた。徹夜したという割には元気そうだ。というよりも、どこか達成感が滲んでいる表情である。
お屋敷で私が見る彼はふわふわした印象が強いのだけれど、実際九段くんはかなりの働き者だ。責任感もあるし、それに見合った立場もある。彼がしっかり者だということは、幼い頃から変わらない。だから、決して仕事を怠ったりはしないし、むしろ今の生活のほとんどの時間を軍への関わりごとに費やしているといっても過言ではないことは、この数日でよく理解していた。そんな九段くんが徹夜で詰めていたということは、結構な大事があったのではないか。
そう思って、なんとなく問いかける。九段くんは、わくわくと並べられる小鉢に目をきらきらさせる。


「泊まり込みだなんて、よほど忙しいのね」

「うむ。昨晩神子が、召喚されたのだ。だが、鬼にその身を奪われてしまってな…目下捜索中だ。我の落ち度も大きい。故に、責任を持って手配書を作っていたのだが、なかなか手間取ってな」


九段くんは、いただきますと手を合わせる。箸を伸ばしながらのさらりとした回答。あまりに緊張感に掛けたので、私もふうん、と流し掛けた。けれども、九段くんの発した言葉が重要な単語を含んでいるような気がして、脳内で反芻する。そうして、その内容が結構な重大事態を表していることに、気づいた。


「え、今、神子って言った? 神子って、あの神子?」

「うむ、龍神の神子だ。召喚の儀は成功したのだがな。でも大丈夫だぞ、我がばっちり見ていたし、それを似顔絵に起こしてきたのだ!」


龍神の神子といえば、九段くんが小さなころから良く話してくれた、あの神子。萩尾家ーー星の一族が仕えるという、伝説の女の子。そして九段くんが待ちわびて、ひたすらに術を磨いていた、すべての理由。九段くんから何度も聞いていた存在ではあるけれど、私はどこかそれを、おとぎ話の中の人物のように思っていた。けれどもその存在がついに、この帝都に現れたのだという。

それがどう影響を及ぼすことになるのかは、わからない。でも一晩のうちに随分、帝国軍内が大変なことになったらしいことは分かった。とはいえ、急な話ではなかったのだろう。神子を召喚する儀式を執り行ったのは、この九段くんのようだから。秘密裏に、用意周到に進められたことなのだろう。


「身を奪われたって、大丈夫なの?」

「…無事だといいのだが。今、似せ絵を持たせて有馬たちに頼んで捜索してもらっているのだ」


九段くんの箸が止まる。沈んだ声色。
私はその憂いを晴らしたくて、九段くんの肩を撫でた。


「九段くんの徹夜した絵でしょう? それなら、安心ね。帝都も広くないもの、すぐ見つかるんじゃないかな」

「そうだろうか?!」


私の言葉に、ぱっと顔を明るくする。彼はいつだって、素直だ。正直、九段くんの絵はそういえば見たことがない。出来映えはどうかはわからないが、それなりに器用なひとだから、巧いことできてるように思えた。

(それに、そう悲観的でもなさそう)

九段くんは自身の使命に関して、手を抜かない人である。だから、今度の出来事も万全の体勢で望んだ筈。だというのに肝心の神子様がさらわれてしまうなんて、かなり衝撃的であるし落ち込む出来事だろう。
だけれど、こうして帰ってきてご飯を食べている。私の言葉に、笑みを浮かべている。だから、まだ大丈夫なように思えるのだった。きっと本当に大事な時、彼はすべてをなげうってでも、使命を果たそうとするだろう。それが神子絡みなら、尚更である。少なくとも、私の知る幼い九段くんは、そういう危うさを持つ子だった。

それにしても……。

――龍神の神子が召喚された。

遠いと思っていたその日が、こんなに早くやってきてしまうだなんて。寝耳に水だ。つまりは。


「予言の日が、近づいてしまったってことだよね」


その声は、自分が予想していたよりも不安げに響いた。


160828



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