現状は最悪だった。神隠しに逢った上に、記憶喪失になった。その上行き倒れてこんな小さな子供に拾われている。

それまでどこかぼんやりとしていた思考が、一気に冷えた。さあっと、冷気を浴びせられたように焦りが生まれる。この状況は、まずい。


「なに、帰るところがないと?家族は?」


怪訝そうな顔をした男の子は、大げさなくらいに驚きの声を上げる。半ば掴みかかるように迫ってくる彼のきらきらした瞳に、適当に誤魔化せそうにないなと悟った。どうしよう。一瞬考えたあげく、出した答えはすべて素直に白状することだった。


「ええと…その…実は、思い出せなくて」

「…む?」

「だから、その、思い出せなくて。気づいたら往来に立っていてそれで・・・自分の名前しかわからなくて」


最後の方は自然に声が小さくなる。我ながらなんて不審な女なんだろう。屋敷の前で倒れていて、妙な服装をしていて、それでいて記憶がないとか確実にかかわり合いになっては行けないパターンである。
しかし少年はいまいちピンとこなかったのか、首をひねる。そこで助け船を出してくれたのは、女の子に呼ばれてきた使用人の女性である。


「記憶喪失ってことでしょうか」

「そう、みたいです」

「他に覚えていることは?どんな些細なことでもいいですよ、おっしゃってください」

「他…あの、ですね」


優しく問われて、つい心が揺らいだ。本当は隠しておいた方がいいことかもしれない。けれども。


「もしかしたら違う世界から、きたかもしれなくて」


信じてもらえないだろうなと思いながらも告白した言葉に、息をのんだのは男の子だった。使用人の彼女と顔を見合わせ、それから小さく頷く。
そして、彼はにこっと笑った。


「よしわかった、しばらく椿はうちに居れば良い!」

「…は?」

「もしかしたら何か思い出すかもしれない。ハル、父上と母上にお話ししてこよう」

「あの?」


男の子の突拍子もない決定に、私はついていけない。もしこの家においてくれるのならそれはありがたいことこの上ないが、だが先ほども述べたように私は今、かなり不審な女である。こんないいところのお坊ちゃんが、簡単に不審者を家に置いていいわけがないし、反対されるに決まっている。
私の動揺を感じ取ったのか、彼は安心させるように言った。


「大丈夫だ。我はこれでもこの家の当主だからな。それにちゃんと言いつけの修行もしておる。甘味も一日三回を守っている。屋敷は広い。一人くらい増えたって問題あるまい」

「え、え…?」

「九段様、受け入れるからには、しっかりと面倒は貴方が見るのですよ」

「うむ!」


助けを求めるように使用人の女性を見つめるが、彼女もにこやかにそう言っただけだった。


「ところでぬしから、何か甘いにおいがするのだが」

「甘い…もしかして、これかな」


私をじいっと見つめてくんくんと、匂いのもとを辿るようにする九段くん。探るような彼の行動に、私は慌てて自分の持ち物を探る。とても残念なことに、私は鞄やらなにやら、全くもっていなかった。ただ。


「それは?」

「チョコレート、だよ」

「ちょこ、れえと?」

「お菓子かしら?」


ポケットの中からころんと出てきた、数個のお菓子。
九段くんと千代ちゃんは、目をまん丸にしてそれに釘付けになった。





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