ユリアンに、戻るべき場所などあの城以外にない。
意識を失った彼女を抱えてさ迷った挙句、行き着いたのは元の宵夜森の中だった。

森の果てに、打ち捨てられた教会がある。昔、この森に住んでいた一族が使っていたという教会だ。廃墟にはなっていたが、建物自体はまだしっかりとしている。その事を思い出してユリアンは、とりあえず、とこの教会に留まることにしたのだ。

静かな森の中で彼女の看病をしながら過ごす間はユリアンにとって、宵夜森の屋敷を飛び出して以来の穏やかな時間だった。シュタールのことは気になっている。エーレンフリートのその後も未だに知れない。だけれど、ユリアンには眠る彼女を放りだしてまた城跡に戻る気にはなれなかった。

彼女は、高熱にうなされていた。呼吸は荒く、時折縋るように手がシーツを掴む。ユリアンは彼女の汗を拭い、無理やり水分を取らせ、そして町で分けてもらった薬を彼女に投与した。
食事や食べ物を取りに行く以外は、彼女の側に座っていた。開かない瞼をじっと見つめ、ずっと物想いに耽る。花のスケッチをしている時のように、丹念に彼女の姿を観察する。

そうして、三日三晩。彼女と出会ってから四日目の朝に、ようやく彼女はその瞼を震わせたのだった。


「ん……」


漏れた声に、ユリアンははっとして腰を浮かせる。堪える様に震える瞼は、ゆっくりと開き、淡い翡翠色をのぞかせる。二、三度の瞬きの後ぼうっと宙を見つめた彼女の視界に、ユリアンは侵入する。


「目が覚めた?」


額に、手を当てる。その感触に驚いたように、僅かに彼女は首を竦めた。


「熱は下がったみたいだね。君、覚えてる?僕にぶつかってきて、それですぐに倒れたんだよ」

「あ……」


彼女はぼんやりとしたまま、ユリアンの姿を捕らえた。きょとん、とした表情の彼女に警戒心を抱かせまいと、ゆっくりと名乗った。


「僕は、ユリアン。君はシュタールの城の側で僕にぶつかってきたんだ。それから、意識を失ってしまって…」

「…ユリ、アン」


鈴を転がしたようなちいさな声が、響く。噛みしめるように呟いた彼女は、不思議そうに首を傾げた。額に張り付いた前髪が、さらりと落ちる。
ぼんやりと見つめるその視線は、物事をちゃんと理解しているのか怪しい。まだ夢見心地なのかもしれない。熱は下がったようだが、体調は万全でないに違いない。されるがままになりながら、じっとユリアンを見つめる彼女は、幼い雛鳥を連想させる。


「とりあえず、近場の宿に運んだんだ。放っておくわけにいかないからこうして君が目覚めるのを待っていたんだけど――」


その時、ベッドに付いていたユリアンの腕がちいさく引かれた。見ると、彼女の指がユリアンの袖を掴んでいる。


「リーゼロッテ」

「え…?」

「わたしの、名前」


突然名乗った彼女は、きょとんとするユリアンに向かってはにかむ。その僅かな笑みに、ユリアンは鼓動が跳ねるのを感じた。
彼女にとってユリアンは、恩人にあたるのだろうか。そうかもしれない。行き倒れたところを助けたのだから。でも目覚めてすぐに、疑いの視線ひとつもなしに、微笑み名乗られるだなんて思ってもみなかった。
気分が高揚し、赤くなりつつある頬を誤魔化すようにユリアンは腰を浮かせる。


「リーゼロッテ…そっか、いい名前だね。そうだ、今何か食べ物を…」


しかし、席を立つことは叶わなかった。
さっきよりももう少し強い力で、彼女がユリアンの袖を引いたからだ。


「ねえユリアン。お願い、わたしを、ひとりにしないで」


甘えたような声色に、震えが混じっている。
吃驚して彼女の顔を覗き込むと、彼女――リーゼロッテはまっすぐにユリアンを見つめていた。その澄んだ翡翠の瞳に、ユリアンは、目を丸くする自分の姿を見ていた。



150517



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