4 名前を、リーゼロッテ・アーベルといった。 シュタール城に長い長い間、住んでいた"人形"の名前である。 ――リーゼロッテという少女はかつて、確かにシュタール城に存在していたのだ。でも同時にどこにもその存在は認められていなかった。だから、人形と呼ぶにふさわしい。 生い立ち自体はそう特別なものではない。 父親は公爵家の跡取り息子で、平凡な決められた人生を歩んできた人だった。その時のシュタールは、大国ではないけれどもしっかりと地盤を築き、それなりに落ちつき、工業展開も他国外交も盛んな国であった。その順調な日々に暗雲が立ち込み出したのは、王が二人目の后を迎えてからである。 どこからともなくやってきた、美貌の女性・ヴィルマ。美しいながらも妖しげな魅力を持っていた彼女は、すぐに王に気に入られ、あっという間に朝廷での権力を有するようになった。 また同じころ、父もその平凡な人生のレールから足を踏み外しだしたのだ。きっかけは、母との婚姻である。母はそれは美しい女性であったというが、身分が低い人だった。それでも是非にと望まれて籍を入れたはいいが、彼女はその美貌で恨みと羨望の的になった。そして無理が祟り、私を産みおとしてすぐに他界した。 国は、ヴィルマを王妃に迎えてからどんどんとその性質を変えた。軍事力に力が入り、工業は兵器を生産する為に強められた。また、徹底的に王族に逆らうものを排除する傾向が強まった。遂には、第一王子の排除。ヴィルマの息子である第二王子に王位継承権が渡り、ヴィルマの天下となったのだ。 父はというと、母が亡くなってから人が変わったように悪事に手を染める様になった。そして、城の汚職事件に関わり――父は、処刑された。同時に私の生家は没落が決定。私は施設に預けられることになった。 ここで、転機があった。 「貴女、綺麗な子ねぇ。私のお人形にしてあげる」 差し伸べられた手を、振り払う選択肢など彼女にはなかった。 ただ物のように、彼女の玩具箱に放りこまれるしかなかったのだ。 そしてわたしは、人形となって、その後十数年を過ごすことになる。 * 「ん……」 深く沈んでいた意識が、浮上する。思考がまとまらない。ぼんやりとした視点のまま瞬きを繰り返していると、視界に見知らぬ青年が映り込む。 「目が覚めた?」 穏やかな声。その綺麗な顔をした青年は、わたしの額に手を当てた。突然与えられた熱に、思わず首を竦めた。 「熱は下がったみたいだね。君、覚えてる?僕にぶつかってきて、それですぐに倒れたんだよ」 「あ……」 心底心配している、といったような表情を浮かべた麗人を前に、ようやく今の状況を思い出した。崩壊した城。瓦礫の中に見つけた――この青年の姿を。 彼は、明確な態度を取らないわたしにぎこちなく微笑みかける。 「僕は、ユリアン。君はシュタールの城の側で僕にぶつかってきたんだ。それから、意識を失ってしまって…」 「…ユリ、アン」 わたしがその名前を繰り返すと、アッシュグレー瞳が僅かに輝いたように見えた。その色に、何らかの既視感を覚える。…どこかで、この人を見たことがある…? でもすぐに記憶を引き寄せることができない。首を傾げたわたしに、彼は柔らかに続けた。 「とりあえず、近場の宿に運んだんだ。放っておくわけにいかないからこうして君が目覚めるのを待っていたんだけど――」 ――その時、あっと、思った。 覚えている。彼だ。わかった。ピンときたわたしは、思わず彼の袖を引く。咄嗟に取ってしまった行動だった。目を丸くした彼に、わたしは安心を覚えて、とりあえず名乗ることにした。 「リーゼロッテ」 「え…?」 「わたしの、名前」 「リーゼロッテ…そっか、いい名前だね」 わたしの名前に、ユリアンは微笑む。 けれどもどうやら彼の方はピンと、来なかったようだ。当然かもしれない。あんなに昔のこと。それに彼は、わたしの名前なんて最初から聞いてないのかもしれなかった。 (でもそれなら、それで、好都合かもしれないわ) なんて、寝起きの頭を精いっぱい働かせて思う。 そうかもしれない、きっとそうだ。――そう、それならば。 「そうだ、今何か食べ物を…」 席を立とうとした彼を引きとめる。ユリアンは、私の顔を恐る恐る覗きこんだ。 ――シュタールが滅びた。わたしは生き残った。ううん、放りだされてしまった、ひとりで。そこで拾ってくれたのが彼というのならば、これは、運命なのかもしれない。 そんな打算的な考えが、ぐるぐると頭の中を巡って。 「ねえユリアン。お願い、わたしを、ひとりにしないで」 口から飛び出たのはそんな言葉。泣きそうに震えている意識してのものではない。身体に染み付いているのだ。――捨てないで、どうか置いていかないで、構って。そんな浅ましい、相手の気を引く態度が。 「…ユリアン」 ちいさく名を呼ぶ。 僅かに、彼の表情が歪んだ。 150517 |