我妻鏡


いつの間にか恐ろしい異界に閉じこめられていた。見知った風景、見慣れた仲間たち――けれどもそこが現実ではなく”異界”だということにはすぐに、気づいた。
弁慶は、梵字の入った外套を頭から被っていた。源平の戦いがまだ終わる様子のない頃に、よく身につけていたものだ。今でもあの外套は手元にある。けれども今の弁慶がそれを身につけることはあまりない。旅装は、必要ないからである。弁慶は軍師を辞め、薬師としての穏やかな余生を歩き始めているのだから。

懐かしい服装であれば、周囲の様子もこれまた懐かしいものだった。九郎に景時、源氏兵たち。それはまるであの頃の再現だった。とはいえ、戦の最中ではないらしい。六条堀川の屋敷に、皆待機し、思い思いに過ごしているようだ。かつて、戦と戦の間にそう過ごしていたように。
だが弁慶はそんな穏やかな空気の中でひとり、この空間の恐ろしさにすぐに気づき、そして嫌悪した。
――これは、現実ではない。夢か現か、夢ならば悪夢だと。

理由は簡単である。


「あかり?そんな名の者がお前の腹心をしていただなんて、初耳だが」


九郎の言葉に、一瞬脳内が真っ白になる。
そう、ここはあかりの存在しない世界だった。弁慶の腹心であり、神子の世界からの来客であり――そして、弁慶の伴侶となった最愛の女。彼女が居ない。それが分かった途端、この世界に懐かしさも何も感じなくなった。

(早く此処から出なければ)

今は遠い世界へと旅立ってしまった友の姿を、こうして前にするのは少しだけ嬉しい。だがそう思いながらも、いつ元の世界へ戻れるのかという気持ちばかりが弁慶の心には大きくのしかかる。戦を終えた世に、残してきた彼女との生活が酷く恋しかった。
たとえ戦の終わっていない世界だとしても、せめてあかりが隣にいればこうも落ち着かなくは思わないのだろう。あかりが存在しないというだけで、こんなにも不安定だ。いつの間にか弁慶は、それほどまでに妻に依存しているらしい。

考えていても、仕方がない。
招かれた以上、きっとこの異界にはなんらかの法則があるだろう。どうしてここへ弁慶ばかりが送り込まれたのかはわからないが、理由、もしくは戻る方法がどこかにあるはずである。

考え込む弁慶に、かつての友の姿をした男が声を掛けた。


「弁慶、あかりとやらは、見つかったか?」

「いえ…それが、さっぱり。僕の断りも無しにどこかへ行くような子ではないのですが」

「そうか。お前にそんな顔をさせる者が、軍にいたとは全く気づかなかったな」

「そうでしたか?僕の隣にあかりは、いつも居たはずなのですが」


九郎は、あかりという存在を知らないのだといいつつも、弁慶の言い分を一応信じてくれるらしい。相変わらず、素直で心根の綺麗な男だ。誰に聞いてもあかりが居た痕跡は見あたらないのだから、きっとこの世界においておかしいのは弁慶の方だろうに。
それを分かっていながらも、弁慶は返す言葉に苛立ちを隠せない。九郎はそんな弁慶に、変な顔をした。


「なあ…お前、化かされているんじゃないのか。近頃は怪異も多い。この町外れには古鏡が人を化かすというじゃないか。あかりという者は、ほんとうに居た奴なのか?」





古来より、鏡には呪術的な力があるとされている。魔を祓うとも、真実を映すとも。


「古鏡の怪、ね」


九郎によると、ある祠に祀られた神鏡が、怪異を引き起こしているのだという。なんでも、覗き込む者の心を暴き、幻を見せ、惑わせるのだとか。
噂を頼りに町外れへとやってきた弁慶は、その鏡があるという社に難なくたどり着いた。躊躇い無く開け放った祠の中に、件の古鏡は鎮座していた。

文字通り、古い鏡だった。形や装飾自体は、特別なものではなさそうだった。古いが、よく見る意匠のものである。怪異が起こるという割には、嫌な感じはしなかった。逆だ。どこかこの祠は澄んだ空気すら纏っている。それは、そう。神子を前にしたときの感覚に似ていた。

直感で分かった。きっとこれが、元の世界へつながる何かだと。とはいえ、軽々しく触れるべきではないのかもしれない。慎重に扱うべきだ。
そう思っていたのに、気づけば引き寄せられるように、弁慶はその鏡を手に取っていた。

よく磨かれたその鏡。覗き込んだ先に、顔色の悪い自分が映って……、いなかった。本来は覗き込んだ者を映すそこには、どこかの森の中が映し出される。生い茂る木々。その中に人影を見つけて、あ、と声を上げる。見慣れた横顔。


「あかり!」


鏡に映る映像は、徐々に彼女に近づく。鏡と言うよりも、動画再生機のようだった。彼女は振り返らない。じっと前を見つめる。その視線の先が露わになり、弁慶は硬直した。
熱心に彼女が目を向ける先には、一人の男。頭から、黒い外套を被るその姿。あかりの声が、響く。


『弁慶さんも神子様にご執心、のようでしたので』


男はあかりを見下ろし、それから冷たい目のまま笑った。


『僕のことが、好きなんでしょう?』


それは紛れもなく弁慶だった。我ながらぞっとする、だが見覚えのある光景。覚えている。これはあかりと恋人契約を結んだ、あの時である。
春の京。まだただの上司と部下だった二人。弁慶は、あかりが気になりながらもそれを恋とは認識しなかった。心を乱すその存在に苛立ち、少し困らせてやろうという気持ちで持ちかけた。でもあかりは自分の気持ちに素直だった。――覚えている。忘れるはずがない。ここから、あかりとの関係は始まったのだ。


「この鏡は、過去を写すのか…?」


つぶやきは動揺の色に染まっている。
それでも、目は離せないまま、鏡の中のあかりを見つめている。





鏡はその後、次々と光景を変えた。見覚えのあるものばかりだった。どれも、あかりと弁慶にまつわる過去である。
こうして傍目から見た自分の、なんと酷いことだろうかと目の覆いたいものばかりである。冷たく当たり、ぞんざいに扱い、それなのに恋人関係という名目で側から離そうとしなかった。
よくもまあ、あかりは弁慶に愛想を尽かさなかったものだと、我が妻ながらも未だに不思議なくらいだ。

(いつまで、見せられるのか。これは、僕への罰か…?)

懐かしむ余裕はない。過去の自分の言動を突きつけられるということは、こうも辛いものなのかとげんなりした。

考えている間にも、鏡の中の時間軸は、どんどん進む。
恋人関係を公表したすぐ後に訪れた、三草山での戦い。山火事で、仲間を犠牲にして進む自身。その後、熊野へ交渉へ訪れたこと。あかりはどのシーンでも、弁慶の後ろを懸命に付いて歩いていた。

(過去は捨てられないということだろうか。戦から遠ざかった、今の生活に染まった僕を、責めるつもりなのか…)

だが、ある部分にさしかかり、弁慶は思考を打ち切った。
熊野の海を望む場所に二人。弁慶と、あかり。

(これは、見に覚えがない)

あの時、二人だけで浜に行ったことはなかった筈だ。こちらの動揺をよそに、二人は寄り添い、向き合った。鏡の中の弁慶は苦渋の表情で、何事かをあかりへ告げると顔を背けようとした。けれどもあかりは顔色一つ変えずに、弁慶に笑いかけた。
会話の内容までは、よく聞こえない。

(だけれども、知っている――この僕は、きっと…)

ある推測が脳裏を占めていた。鏡の中の存在とはいえ、自分自身だからか。あかりをひとり呼び出している状況、この表情……一度、ちらりと考えたことのある。計画はしたが行動に移すことのなかったある筋書き。
そしてその推測を裏付けるように。響いたのは慟哭する弁慶と、対照的に凛としたあかりの声だった。


『あかりはまだわかっていない、僕がどんなに酷い男かを!きっとあかりが泣いて、叫んで、嫌がって僕は貴女を離してやれなくなる。例え貴女が僕を嫌いになっても、側にいてくれたら構わないと…自分で自分が何をしでかすか、分からないのに…っ』

『――いいですよ。道連れにしてくださって、結構です』


あかりは、そっと弁慶の手を取る。


『お願いです弁慶さん、私を、貴方の隣に居させてください』

(ああ…)


――解ってしまった。

これは、別時空の自分たちの姿だ。




弁慶が神子軍記なるものを初めて見たのは、神子が和議を結ぶ少し前。丁度この時期の、熊野でである。

神子が時空を渡れるという話も勿論だが、別時空であかりが託したというそれに、興味を持たないわけがない。そしてその内容は、恐ろしく悲しくもどこか甘美な結末だったのだ。

かつて源氏を、神子を裏切り、あかりと心中した自分が、別の時空に居たという。傍目からするお、とても信じられないような話だが、その冊子に書き込まれた話は作り話とするにはあまりにも生々しく、紛れもなくあかりの手による記述だった。

神子は、幾度も時空を渡り今のこの世界へたどり着いたのだと言った。
そして弁慶は悟ったのだ。どれほど弁慶が、あかりの人生を狂わせたのか。そして、弁慶自身があかりにどれほど依存させられているのかということを。

(それに……あの軍記の展開は、事実、一度自分も考えたものだった)

異なる自分とはいえ、やはり自分自身なのだろう。もし少しでも何かが違えば、きっと自身も同じ道を辿っただろうと思わされた。

(そしてこれは…この鏡に映るのは、その、異なる道を選んだ自分、か)

軍記にあった別の時空の変遷を、こうして目にすることになるとは思わなかった。この先の結末は知っている。このように目の当たりにすることに、何の意味があるのか。自分とあかりのこととはいえ、今の自分たちとは別の存在だ。こんな、二人のあれやこれを覗き見るような行為は良くないのではないかと。
そう思うのに硬直したまま、目を離せない。

そして鏡は、赤く塗られた立派な社殿を映し出す。
厳島神社――源氏と神子を裏切り、あかりと二人、平家と寝返った弁慶。その目的は清盛を自身に取り込み、自身ごと葬り去ることだった。
きっと弁慶にとって誤算だったのは、ここまであかりが付いてきてしまったことだろう。最期まで共に、と願ってやまないあかりを突き放すことができず、手放せないままに運命を共にしてしまった。


『弁慶さん、を、独りでなんか逝かせない』


最悪の、展開だった。
清盛に乗っ取られかけた弁慶は、その手であかりの腹部を滅多差しにしたのである。主導権をすぐに取り戻したものの、あかりは傍目に見ても分かるほど、取り返しのつかない状況になっていた。
それでもなお、あかりは弁慶と共に逝けると笑う。


『これでちゃんと、約束、守れますね…』

『あかり…』

『なんて、顔、してるんですか…私、幸せですよ、弁慶さんと最期まで一緒だもの』


そんなあかりとは対照的に、覚悟を決めているはずの弁慶の顔は蒼白で、震える声で呟く。


『僕は、君にここまで尽くしてもらう価値、あるとは思えない。どうして君は僕に付いてきてしまったんですか』


あかりはぐったりと弁慶に抱かれながらも、微笑む。そして、弁慶をじっと見つめた。


『弁慶さんの瞳、まるで鏡みたい。見つめられると心の中を暴かれてしまいそうで――でも、私はそれが、嬉しい。この心のうちを、貴方に全てさらけ出してしまえたらどんなに嬉しいか』

『……』

『きっと、弁慶さんが思っているよりも私は弁慶さんを愛しているんです。どうしようもないほどに、大好きなんです。だから、後悔なんてないし、これは自分が望んだことだから。…まあ、でも』


そのとき。
すっと、あかりが弁慶から目を離す。そして――こちらへ、顔を向けた。鏡を見つめる弁慶は、彼女と目があったような気がした。そんなわけ、ないのに。


『でも、もし、他の選択肢があったのなら。私は貴方を幸せに、できたのかもしれないしれない、ですね』



「――っ」


まるで、鏡のこちらの自分に掛けたようなその言葉に、どきりと心臓が騒ぐ。

その拍子に、鏡がするりと弁慶の手から離れた。


『…!!』


まずい、と思った時には、床に鏡は打ち付けられていた。
バリン、と嫌な音が響く。

――鏡が、砕ける。

鏡の中のあかりの顔が、揺れる。


「あかり…っ」


触れられるわけがない。鏡の中の妻の姿。それでも思わず手を伸ばす。彼女に触れたいと、ただその想いだけで。
そうして伸ばした手の先には…。



***



弁慶さんが高熱を出して倒れたのは、昨晩のことだった。朝から調子が悪そうではあったのだけれども、本人は大丈夫の一点張りで、気づくのが遅れた私にも責任はあるだろう。
夕餉前にぐらりと傾いた彼を支えて、身体を支えた時のその熱さに驚いた。彼はぼんやりとしたまま、けれどもしっかりと自身の状況を把握したらしい。すぐに薬を飲み、そのままぱたりと意識を落とした。
それから一日半、私は付きっきりで看病をしていた。

夢でも見ているのだろうか。魘される彼を心配に思いながらも、側にいることしかできない自分が歯がゆい。でも、大事は無いはずだ。熱も徐々に下がってきている。
額に浮かぶ汗を拭う。ついでに、眉間による彼の皺を撫で、首筋へ手を滑らせる。まだ少し熱っぽいかもしれない。
――と、急にその手を掴まれた。


「――あ、夢……?」

「弁慶さん!」


彼はぼんやりとした目つきで、私を映した。


「ご気分は…?!あ、覚えてますか?昨晩、急に熱を出して…」

「ああそうか、僕は倒れたんですね…」


焦点がなかなか合わないのか、うろうろと視線をさまよわせた彼は、つかんだままの私の手を自分の頬に押しつける。
その体温に安心したのか、一呼吸の後、ぽつりと呟いた。


「嫌な夢を見ました。君が、居ないんです」


よほど夢見が悪かったらしい。熱がある筋書きのもあるだろうが、顔色がとても悪い。


「九郎もいたのに、君だけが探しても探しても見つからなくて――やっと見つけたと思ったら、鏡の中で。君は愚かにも僕と心中して。…酷い女ですね、あんな風に寄り添われたら、手放せなくなるのも当たり前だ」

「べ、弁慶さん?」


珍しく要領を得ない彼の言葉に、心配になる。
掴まれた方とは逆の手で、彼の額に張り付いた前髪を払う。気持ちよさそうに目を伏せた弁慶さんは、身を引こうとした私をとどめるように、袖を引いた。


「あかり、僕を見つめて」

「は、はい」

「…ありがとう。君の瞳に見つめられると、どうにも僕は弱いみたいだ。でも、落ち着く。君の瞳の中は居心地がいいんです。罪も咎も…全てを分かった上で、一緒に背負ってくれるのではないいかと、そんな気がして」


やはり、よほど弱っているらしい。
夫が自身の罪や咎に長年思い悩んでいることは承知だ。それでも一緒になってからは、あまり口にはしなくなったのだが。

体調が悪いと気持ちも弱る。その気持ちは分かるし、こんな時ほど支えたいと思うのは当然だった。――こんな時でなくても、支えたい気持ちは誰にも負けないのだけども。


「心配しなくても、あなたの罪も咎も人生も、私は一緒に背負うつもりですよ。だって、妻ですから」


だから、そう告げて、彼の額に唇を落とす。
弁慶さんは安心したように、ふっと肩の力を抜いた。


「ふふ、君は、僕の幸せを映す鏡なのかもしれないですね」


そうして、すっと彼は眠りに落ちる。その表情がとても穏やかで。こんな弁慶さんの表情を間近で見られる役得に、幸せを感じながら。


「今度は、優しい夢が見られますように」


私は愛しい夫に、願って、もう一度頬に唇を落とした。




160211
弁慶さん、お誕生日おめでとう!




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