眠る前にはキスをして


小さな頃の彼はひどく泣き虫だった。

私は、そんな彼の世話を随分甲斐甲斐しく焼いていたのだ。
石を投げられ怪我を負っていれば、治療を。傷つき心を閉ざそうとしていれば、楽しい物語を。私は彼に寄り添い、自分にできる精一杯のものを与え続けた。

博愛主義なわけではない。彼にだけ特別優しかっただけだ。理由はいくつか、ある。彼の生まれの事。私の家系の事。母の生家と父の職業の事。なによりも――私がその頃から彼に惹かれていたということ。

ここで大切なのは、彼に関わろうとする人間は僅かで、同年代の子供となると私くらいしかいなかったということである。だから、私と彼が互いに切れない絆で結ばれたのは当然のことだった。





京のとある貸本屋。各地に点在する”文鬼”の拠点のひとつ。夜も更けた頃、突然の来客があった。
音もなくふらりとやってきた彼は、何を言うでもなく店の奥の移住部分へと上がり込み、その場に寝転ぶ。私も特に驚きはせず、書籍を整理する手を止めて彼の顔を覗き込む。
桜智は、たまにこうしてやってくる。特に居場所の連絡をしない私を、しかし彼は見つけるのが昔から上手い。だから彼の出現に驚くことはなかった。

しかし、このように唐突に訪ねてくる時は決まって、彼が参っている時である。昔のように泣いたりはしない。桜智は感情の起伏が、成長するにつれて少なくなったから。

それでも、長年の付き合いだ。顔を見れば今の状況くらいわかる。
――顔色が、酷い。何日か寝ていなのかもしれない。彼の白い肌に、目の下の隈がよく目立つ。


「眠れないの?」


私は、横たわる桜智の顔の近くへ腰を下ろした。顔にかかる前髪を払ってやると、彼は静かに目を閉じる。幕末として働く彼は、表にはできないような仕事を任されることが多いらしい。彼の能力や、性質からすれば確かに適任だ。だが、時にそれは彼の精神を追い詰める。

(詳しい話は…聞いてないけれど)

あえて、聞かないのだ。幕府の機密だからというより、幕臣としての桜智の姿を知ってしまうのを躊躇う理由から。
私は桜智の味方でいたい。彼を助ける存在でありたい。だけど彼の異なる一面を見つけてしまったら…そうで居られる自信がない。自分勝手だけれど、このまま余計なことには気付かないままでいたいという打算的に思っている。

桜智の頭を撫でる。ただ彼を甘やかす。無責任に。
きっと彼もそんな私を分かっている。分かった上で、ここへ来る。だから、これは同意の上の事。


「なまえ、あの話を聞かせてくれないだろうか」


桜智は薄目を開け、呟いた。どうやら今回は相当参っているらしい。

あの話――遠い昔の神子と八葉の物語。私が母から語り聞かされ、彼に私が語り聞かせて物語。私はこの話が大好きで、彼もまたこれを特別気に入っていた。

私は、桜智の頬に手を当てる。温い体温が伝わる。


「…わかったわ。でもその後で、ちゃんと寝なさいね」


今日は、どこの話が良いだろうか。励まされる話が良いかもしれない。神子が遂に敵を打ち負かし、世界を救う部分にしようか。

考えながら腰を浮かし、でもふと思いついて私は屈んで桜智へ顔を近づける。


額に、口づけをひとつ。
母が子にするような、気軽さで。


特別な関係を望んでいるわけではない。どんな形でもいい、私は彼の心の拠り所でありたいだけだ。こうして甘やかして、少しでも彼が救われたらそれでいいのだ。
私は、彼が安らかに眠れますようにと願い、この不毛な恋心がばれないようにと祈った。


140920



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