奪うようにキスして


こちらを見上げるなまえの瞳に、引き寄せられるようにして頬へと指を這わせる。熟れた林檎のように真っ赤なそれを両手で包み込むようにすれば、恥じらうように彼女は視線を逸らした。


「…逃がしはしませんよ」


なまえは弁慶よりも随分背が低いのだ。殆ど仰向け状態の彼女の顔を固定してしまえば、逸らすにも逸らしきれない。覗き込む弁慶の瞳に、数秒と経たないうちに捕らわれてしまう。
交り合う視線。なまえが息をのんだ。

夕暮れ時の逢瀬。恋人同士ならば、不思議ではない光景。なまえは弁慶の補佐であるから、共にいる時間は短くない。人気の無い場所で二人きりになったタイミングでこのような状況に陥ることに、不自然さはないだろう。
――しかし、きっと彼女は混乱している。弁慶が積極的になまえに触れるようになったのは、つい最近の変化だった。

なまえの瞳には、弁慶の顔が映り込む。真剣な表情。常の穏やかなそれでも、なまえに対する冷ややかなそれでもない。


「なまえ…」


名を呼ぶ。甘いというよりも、逃がさないという意味合いを込めて。瞬きさえ許さないそれは最早――支配だった。
なまえは息を詰めたまま、されるがままに弁慶を見つめる。彼女の視線には緊張と…僅かな期待が滲んでいた。

(全く、無防備な)

弁慶は、舌打ちしたい気持ちを抑えて飲み込む。
心がざわざわとした。なまえを前にするといつも、弁慶は余裕を保てなくなる。悪態をつきたくなる。彼女を追い詰めたくなる。加虐心が、煽られる。

その苛立ちの原因が、彼女への屈折した恋慕であることを弁慶自身、既に認めていた。だからこそ、こんな無防備に自分に捕らえられているなまえが腹立たしい。
なまえが自分を好いているのは知っているが――それが、自分がなまえに対して抱いている気持ちよりも勝っているとは思えなかった。少なくとも、なまえは危機感が薄い。自分のような男を虜にして、こんなに無防備なのだ。捕まれば、あっという間に好きなようにされるという事実に、気付かないのだ。

(そもそも、僕の気持ちに気付いていないのでしょう)

こうして迫っても、恋人ごっこの延長と思っているだろう。自分の片想いに過ぎないと、憂いているのだろう。
だから無自覚に、彼女は自分を求める。振り向いてくれと――そんな必要はないのに。


「弁慶さん、」


至近距離での沈黙に耐えきれなくなったように、なまえが呟く。困惑に染まった声色は、しかし、どこか舌っ足らずで甘ったるくて。


「―――ッ」


耐えきれるわけがなかった。弁慶は、噛みつくように唇を重ねる。吃驚したように目を見開いた彼女は、しかしすぐに悩ましげに目を細める。


少し長めの口づけをして、彼女を抱き寄せて。それでも彼女に、まだこの胸の内には伝えない。

(もう少しだけ、猶予が欲しい)

奪われているのは、支配されているのは、弁慶の方。彼女に溺れる前に、まだ、終わらせなければならないことが残っている。

(もう、決して逃がしはしませんけれど)

縋る様に絡めた舌に、苦いくらいの想いを込めた。



140817
巻三熊野以降、大団円前あたり。



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